この世界には昔から、「未練を残して死んだ人間は魔物に成り果ててしまう」という言い伝えがあった。
何でも、強い恨みや悲しみなどの未練を抱いたまま命を落とすと、その瞬間に身体が魔物に変わり果ててしまうという。その言い伝えを信じるならば、光に弱く暗闇を好み、夜にしか活動しない魔物は、全て死んだ人間の成れの果てだという事になる。
大半の人間がその言い伝えを信じていた。
中には行き過ぎて、魔物を〝超越した存在″として崇め、〝死んで魔物に生まれ変わる″ことを美徳とする者たちが怪しげな新興宗教の教団を作り上げてしまうほどだった。
だが、中にはその言い伝えを信じていない者も居た。
夜の酒場で大きなジョッキを傾けるグレン・マスグレイヴもまた、その一人。未成年でありながら堂々と酒場でビールを飲み下す彼を、周囲の者たちは咎めようとはしない。
グレンは18歳で成人してすぐに酒の味を覚え、賭け事やロックバンドのライブに興じ、時には喧嘩さえも楽しんでしまう、いわゆる〝ヤンチャ坊主″なのだ。止めたところで再び騒ぎ始める彼の性質を良く知っているからこそ、周囲の者たちも無理に咎めることはせずにそれを受け入れてしまっている節がある。
グレンはまだ半分ほど残っていたビールをぐいっと一息に飲み干すと、ダンッと音を立ててジョッキをカウンターに置いた。ぷはー、とややオヤジ臭い溜息を洩らすと、ジャケットの内ポケットから銅貨を2枚取り出してジョッキの横に落とす。
チャリン、と小気味のいい金属音が小さく鳴った。
「もっと飲みたいところだが、今日はここまでだ。金は置いとくぜ」
「なんだグレン、お前が2杯しか飲まないなんて珍しいな。明日は雪でも降るんじゃないか?」
「ハハッ、ホントに降ったら〝雪遊び″するのもいいかもな!」
「バーカ、お前が全力で雪遊びなんかしたら、街の建物がぜんぶ壊れちまうよ!」
酒場の主人の軽口に、グレンは屈託のない笑みを浮かべながら軽口で返した。つられて周囲の大人たちも大声を上げて笑う。ほろ酔い状態の酒場は、悪餓鬼のグレンでさえも受け入れる懐の広さがあった。グレンが毎日のようにこの酒場に入り浸るのは、ひとえにこの酒場が好きだからだ。
「――グレン、何か用事でもあるのかい?」
ふと、隣の席から声がかけられた。グレンがそちらを向くと、彼の友人であるユリウス・マリーヤが不安げに眉を寄せている。
幼少の頃からグレンと非常に仲が良く、付き合いも長いユリウスは、無鉄砲で怖いもの知らずのグレンとは対照的に気弱で繊細な男だった。恐らく、普段ならば10杯は飲まないと気が済まないグレンが早々に席を立ったので不安になったのだろう。
「ああ、ちっと知り合いの女に呼び出されててな。あんまり俺の好みの女じゃねえんだが」
「そう…あまり、無理はしないで。なんだか、嫌な予感がするんだ……」
「なんだよ、ユリウス。そんなに心配するこたねえだろ。ただの野暮用だ、ちょっと遊んだらすぐ帰るさ」
グレンがにっと笑って肩を叩くと、ユリウスの表情も幾分か晴れる。数々のヤンチャをやらかしておきながらグレンへのお咎めが少ないのは、どこか憎めないこの笑顔が作用しているのだろう。どこか憎めない悪戯っ子のような笑みは、他人の毒気を抜いてしまうのだ。
もっとも、グレン本人はそんな事は全く意識していないのだが。
「そうだね…ごめんよ、グレン。なんだか、君ともう、会えなくなりそうな気がしてさ…」
「おいおい、そいつは笑えないジョークだな。心配いらねえって、新しい遊び場に行くだけだからよ」
グレンの言葉に、ユリウスは苦笑交じりに頷いた。ユリウスは優しい男だが、どうにも心配しすぎるきらいがある。グレンはユリウスのそういった欠点さえも含めて「面白い男」だと思っていて、だからこそここまで長い付き合いを保てているのだが。
ユリウスが安心したのを確認すると、グレンは酒場の出入り口のドアに手をかけた。
「じゃーな!いい年こいて二日酔いになるんじゃねーぞ、オッサン共!」
「お前もはしゃぎ回ってケガすんなよ、悪ガキ!」
品のない言葉の応酬であるにも関わらず、言葉を交わしているグレンと大人たちは互いに歯を見せて笑っていた。
にっと笑いながら大人たちに向けてひらひらと手を振っていたグレンは、やがて酒場のドアをぱたりと閉める。先程までの酒の匂いと賑やかさから一転して、周囲が夜の静寂に包まれた。
「――ちょっと、20分も遅刻してるわよ?レディとの約束前に飲酒して、その挙句遅れるなんて…失礼だと思わないわけ?」
突然、背後から声をかけられた。細く綺麗な響きを持った弾むようなその声の主である少女は、グレンの背後で不機嫌そうに眉をしかめている。
グレンはにやりと笑みを浮かべながら、大仰に両手を広げて振り返った。
「へえ、レディなんてどこに居るんだ?死んで魔物になる事を「素晴らしい」なんて言っちまうような教団に居る女が、淑やかな女だとは思えねえな」
「…あいっかわらず、その口は減らないようね」
グレンの挑発に、少女はシルバーブロンドの髪を揺らしながらいっそう眉をしかめた。だが、すぐに気を取り直したように得意げな表情を作ってみせる。
「ふん…まあいいわ。アンタ、ずっとあたしらの教団の事、嗅ぎ回ってたわよね?アンタのバカなアニキが、あたしらの教団の事を調べてたら突然居なくなったもんだから」
「オレの〝オニイチャン″はかわいい弟をほっぽっていきなり蒸発するような甲斐性無しじゃないんでね。どう考えても、テメエらが怪しいんだよ」
「ぷっ、かわいい弟?アンタが?手のかかるヤンチャ坊主の間違いじゃないかしら?」
好戦的な笑みを浮かべながらも、グレンの目には怒りが渦巻いていた。その視線を受けた少女が、にやりと勝気な笑みを見せる。
魔物を超越した存在として崇め、死んで魔物に生まれ変わることを美徳とする教団〝ヴァレリエート″は、裏で怪しい人体実験や黒魔術による手術を行っているという噂が絶えない教団だった。グレンの兄はそんな教団の闇を暴こうと調査をしている最中に、こつ然と消息を絶ってしまったのだ。
以前から教団の事を気に食わないと思っていたグレンだったが、兄が消息を絶ってからはいっそう激しい怒りと恨みを抱いている。
「……だから今日、アンタを呼び出してあげたのよ。大好きなアニキに会わせてあげる…ってね?」
「――ハッ!相変わらず汚物以下のニオイしかしねえな、テメエらは!それが罠だって分からねえほど、オレもバカじゃないんだぜ?」
「いいわよ、来たくないなら無理に来なくても。その代り、アニキとは一生かかっても会えなくなっちゃうかもしれないけどね?」
余裕の笑みを見せる少女は、グレンを値踏みするようにじろじろと見ていた。その視線を黙って受けていたグレンの口角が、再び不敵に吊り上がる。
「…いいぜ、案内しろよ。たまにはテメエらと遊ぶのも愉しそうだ」
グレンの返答に、少女は満足したように微笑んだ。
「…いいわよ、来なさい」
ブロンドの髪を翻して、少女がグレンに背を向けて歩き出す。グレンは不敵な笑みを絶やさぬまま、その後ろ姿を追った。
*********
少女に案内されてたどり着いたのは、ヴァレリエートの総本山である教会だった。
ところどころに髑髏の意匠が施された悪趣味な建物の中を、少女はずんずんと自分の庭であるかのように突き進んでいく。
「――悪趣味な宗教だな。魔界にでも招待されちまいそうだ」
「黙って歩きなさい」
グレンは教会の装飾を鼻で笑ったが、少女はそれをばっさりと切り捨てる。少女もグレンとは腐れ縁と呼べるほどに長い付き合いなのだ。ヤンチャ坊主の軽口にも慣れてしまっているのだろう。
やがて、グレンは教会の一番奥の部屋へと通された。
灯りのないその部屋の中心には怪しげな魔法陣が描かれ、人ならざるものの気配が漂っている。
「オイオイ、ここでオレを魔物のエサにでもするつもりか?言っとくがオレは高いぜ?」
「大丈夫よ、お相手もアンタと同じくらいに高級なヤツだから…。お気に召すと思うわ」
その部屋に魔物が居ることは明白だった。それも、かなりの強さの。
普段なら魔物と戦う事さえ愉しんではしゃぐような怖いもの知らずのグレンだが、この部屋に居る魔物からはグレンが普段相手にしている魔物よりも数段強い気配がした。
「…なら、いっちょダンスパーティーといくか?」
グレンは腰に下げた鞘――シースから2本のククリナイフを抜き、バトントワリングのように振り回し始めた。空を斬る音が部屋に響く。
やがて、2つの剣先が魔物の気配がする方角へと向けられた。
「いいわよ…。こいつお転婆だから、振り払われないように気をつけなさいね」
少女が嘲りを含んだ声で嗤った瞬間、部屋の壁に取り付けられたロウソクに一斉に火が灯った。
暗がりに包まれていた部屋がロウソクの火に照らされ、部屋の中央に居る魔物の姿がはっきりとグレンの目に映る。
「な…っ」
魔物の姿を見て、グレンは思わず息を飲んだ。驚愕に染まったその表情が、やがて呆れたような笑みに染まる。額には嫌な汗が伝っていた。
「ははっ…とことん悪趣味だな、お前ら」
いつの間にかグレンの背後に移動していた少女に向かって、顔は向けずに声を飛ばす。少女からは聞えよがしの嘲笑が返された。
「褒め言葉と思っておくわ。…言ったでしょ、アニキに会わせてあげる、って」
「大したノリだな。胸糞悪くてヘドが出そうだぜ!」
獣人のような姿をした巨大な魔物は、3メートルほどもある巨体を誇っていた。焦げ茶色の体毛に覆われた身体は人間と同じく2足歩行で、巨大な手からは鋭利な鉤爪が生えている。
顔にあたる部分は体毛に覆われていたが、隙間から除く顔のつくりは人間によく似ていた。
そして――その顔は、紛れもなくグレンの兄の顔だった。