第11項【死んでも離れない】


「やめて!」と叫ぶ少女の声に、

男の身体はようやく止まりました。

 

やっと止まることができた男は、

表情をかなしみに染めることもできずに

俯いてしまいます。

少女は男の顔についた血を優しく拭って、

しずかに首を横に振りました。

 

「行きましょう」

「どこへだ」

「あなたが傷付かない場所」

 

少女が言うと、男は下をむいてしまいます。

 

「そんな場所があるのだろうか」

 

少女にはそれが、

男が「自分にはそんなことは許されない」と

言っているように聞こえました。

 

少女が男に声をかけようとしますが、

それよりもはやく男が動きました。

とつぜん、

少女を自分のうしろにかばったのです。

 

気がつくと男の目の前には、

いつかの皇子が立っていました。

 

「…これは貴様の仕業か」

「そうだ。これはおれがやった」

 

怒りをかくしたような顔をしている皇子に、

男は怖がりもせずに答えました。

 

「戦争に関わらず、国も家族も、仲間も居ないお前が…何の為に、やったんだ」

「…おれが、そう在れと願って造られたからだ」

 

その答えは、嘘ではありません。

ここでのころしは、

男の意思ではありませんでした。

 

そう――“ここでの”、“今までの”ころしは。

 

「おれは、あらそう人びとをころすようにと

願って造られた。だからころした。

 

だがおれは、

おれ自身の本能とは別に、

ひとりの人間をまもるという意思で

行動している。

 

おれにとっては、

その人間ひとりの命のほうが、

多くの命よりも重い。

おれはそのひとりさえまもれれば、

ほかにはなにも望まない」

 

「人殺しを、

その人間のためにやめようとは思わないのか」

 

「思ったところでおれには何もできない。

おれはあらそう人間をころさずにはいられない

…そういうモノだ」

 

「…そうか。やはり貴様な危険な存在だな」

 

皇子はしばらくの間、男を睨んでいましたが、

やがて男に剣をむけました。

すると、

どこからともなく皇子の部下らしき兵士たちが

あらわれて、男と少女をとり囲みます。

 

「貴様の存在は、わが国に…

いや、この世界全体に災厄を招くだろう。

そうなるまえに、今ここで討たせてもらうぞ!」

 

皇子の言葉に、

少女はあんまりだと泣きたくなりました。

 

自分でも望んでいない人殺しをしてしまう男。

でも男はずっといやだと思ってた自分の宿命を

受け入れて、そのくるしみよりも守りたいものを

選んでくれたのに。

 

でも男は、かくごを決めたように

堂々としていました。

 

「すまない。おれは今から、

おれの意志で人をころす」

 

少女にそう告げると、男は少女を片手でやさしく抱えたまま、皇子たちとたたかいました。

肉がとびちり、骨がくだけ、

たくさんの人が死にました。

 

それでも男は、

少女をやさしく抱きかかえたまま、

皇子たちの手をふりきって走ります。

 

広場を出て、

街を抜け、

山脈をこえてどこまでも――

この世界全体から、逃げるように。

  

 

 

 ホロウが探し求めていた反応が見つかったのは、太陽が眠りに落ちかけている頃のことだった。

 それは、スラム街からずっと離れた場所にひっそりと存在する、小さな森のなかにある。

 

「ホロウ…どうして、こんなところに…?」

 

 ホロウの腕からそっと地面に下ろされたアイビーが怪訝そうに尋ねてくる。ホロウは彼女に目を向けた後、目の前でひっそりと自分たちを迎え入れている森の入り口を見やった。

 

「ここにある。…アイビーが、言っていた場所が」

「え…」

 

――あなたが傷付かない場所。

 

 アイビーの言葉通りの場所など、このクレアシオンには存在しないと言っていいだろう。ホロウもそう思っていたからこそ、あの時は彼女の言葉に頷く事ができなかった。

 

 けれども、今の彼は確かにアイビーが言っていた通りの場所を見つけられたのだ。

 

「ついてきてくれ」

「あっ…うん!」

 

 アイビーがちゃんと追って来られるように、歩調を調整しながら先導して森の中へと足を踏み入れる。

 大陸の外れに位置しているらしいこの森がアルムバントの領土なのか、ダクテュリオスの領土なのかまでは分からない。侵入を防ぐ柵も所有を示す注意書きも無いところを見るに、どうやら外れにあるこの場所は両国からも忘れ去られてしまっているらしかった。

 

 日の沈みが思った以上に早く、ただでさえ光源に乏しい森は更に暗い闇に包まれていく。

 ホロウはアイビーと離れてしまわないようにと、彼女の手を小さな力で握った。

 

「…ここだ」

 

 そう言って立ち止まったホロウにつられるようにして、アイビーも歩みを止める。

 

 示し合わせたようにそこを避けるようにして木が生えていないその場所には、ぽつんと小さな機械が置かれていた。丸い台座のような形をしたそれは、ツタや草木の苗床にされながらも未だ淡い光を放っている。

 

「ホロウ、これってまさか…」

 

 機械をじっと見つめていたアイビーが、驚いたような表情でホロウを見る。ホロウはカメラアイとセンサーで機械の状態を確かめながら、はっきりと頷いた。

 

「…おれは、この世界に居てはならない存在だ。おれが存在する限り、ハイノのように死んでいく者は増えていく。おれがおれという存在であるかぎり、それは続くのだと思う」

 

 ゆっくりと、機械に歩み寄る。アイビーが数歩後ろからついて来る足音が聞こえて、ホロウはどこか安心感にも似たものを覚えた。

 ホロウは静かでありながらも、諦観を含んだ口調で言葉を紡ぐ。

 

「このままこの世界に居てはいけない…この世界の中で、おれがおれである限り、おれにも…アイビーにも、幸福は望めない」

「ホロウ……」

 

 涙交じりの声が聞こえて、ホロウは身体ごとアイビーの方を振り返った。彼女は泣きそうになるのを必死に堪えながら、それでもホロウの言葉に耳を傾けてくれている。

 

「もう、終わりにしなくてはならない。パンドラの箱が完全に開いてしまう前に、災厄は封じられなければならない。

 

…この世界に、おれの居場所は、あってはならない」

 

 その言葉が呼び水となったかのように、アイビーの瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。

 ホロウは彼女に歩み寄ると、泣き続ける彼女の身体を抱き締めた。優しく、手折ってしまわぬように、慎重に。

 

「…すまない」

 

 ぽつりと呟いたその言葉に、アイビーは腕の中で小さくかぶりを振った。

 

「いいのよ。…私は今までずっと、自分の意志であなたと一緒に居たの。

 あなたが居てくれなかったら私…きっとあのまま、惨めな思いを抱えて…死んでいたわ」

 

 あなたが傍に居てくれて良かった。鈴のように滑らかで軽やかな声音でそう告げられて、ホロウは抱き締めた彼女の頭をそっと撫でた。じんわりとした温かい感情がプログラムを覆い尽くしていくのが分かる。

 

「ねえホロウ。私も…一緒に」

 

 ゆっくりと身体を離して、アイビーと視線を合わせる。左目にしか残されていない瞳の輝きは、凛とした決意を如実に表していた。

 

「死んでも離れない。ずっと…一緒よ」

 

 凛とした瞳の輝きと、微笑みを称えながらも静かで儚げな表情と声音に、ホロウは小さく頷いた。

 もはや、確認も念押しも不要だろう。

 

 今の彼女に伝えるべき言葉は謝罪でも懺悔でもない。

 

「…ありがとう」

 

 その言葉を聞いて小さな野花のような笑顔を咲かせた彼女に、そっと音もなく口付ける。

 体温のない人工皮膚に伝わってくる彼女の体温はどこまでも優しく、守っていなければ消えてしまいそうなほどに儚いものだった。

 

 人造の赤い光と控えめに輝う青光が混ざり合って、アイビーの胸に光る紫水晶の色をしたガラス玉のペンダントが、小さく揺れた。

 

  やがて、この森には何も残らずに消えていった。

 

 転送装置の強い光だけが尾を引くようにして空に昇り、2人の姿を見た者はその後何処にも居なかったという。

 

 日は沈み、空は鮮やかな夕闇に包まれようとしている。

 

 

 

************

 

 

 

 全ての人間が滅び、文明が途切れた世界――デストルクシオン。

 

 ヒトという生物が息絶え、街などが緩やかに崩壊していくばかりになってしまったこの世界に、2人は居た。

 訪れたのは、2人が出逢った場所でもある金属質の建物の中。アスタロトの研究施設であったらしいそこは相も変わらず埃にまみれていたが、それでも2人は気に留めなかった。

 

 ここには2人を脅かすものも、2人が脅かしてしまうものも、何もない。

 たった2人だけしか、存在していないのだ。

 

「…この世界に残っている転送装置は、あの二つだけ…そのどちらをも、破壊した」

 

 研究所の一室、ホロウが初めて起動した場所で静かに寄り添う。自分達以外には動くものも、声を発するものも、意識のあるものも、何も存在しない。

 

 それでもホロウの口調は、これ以上ないほどに穏やかで優しいものだった。それは、彼に寄り掛かってその肩に身を預けているアイビーもまた同じで。

 

「そうね…これで、私と、あなただけ」

 

 心底嬉しそうな、愛しそうな口調で、そう言って微笑んだ。その表情には後悔も悲哀も未練も、寂寥さえも、負の感情の全てが微塵も感じられない。

 

 人の命が失われ、時が止まってしまったような静寂が支配する世界で、たった2人きり。

 

 2人にとっては、その事実が何よりも救いで、何よりも嬉しいものだった。

 

「…やがておれは、この場で朽ち果てて、死んでしまうだろう」

 

 中空をぼんやりと見つめながら、ホロウが小さく呟いた。その声音は先程とは打って変わって静かで、どこか遺憾であるような響きさえもが混ざっている。

 

 けれどそれは、ホロウ自身に対してのものではなかった。

 

「おまえを、一人にしてしまう」

 

 悔しそうに紡がれたその言葉は、朽ちゆく自分よりも置き去りにされるアイビーを想ってのものだった。

 

 生まれ育った世界よりも、自分と居ることを選んでくれた愛しい人。彼女を独り残して朽ちる事だけは嫌だと、ホロウは心の底から思っていた。

 

 けれどアイビーは、先程までと同じ穏やかで優しい顔をしたまま、悔しさに眉を潜めるホロウの手をそっと両手で包み込む。優しいその感触に、ホロウは思わず彼女に向き直った。

 身を起こしたアイビーは、慈愛に満ちた穏やかな笑顔を浮かべている。

 

「なら私は、朽ち果てたあなたの傍で、喉を突き刺して死にましょう」

 

 そう言って彼女が取り出したのは、かつて彼女が言っていたものであろう護身用のナイフだった。

 シースに収められたままのそれを自らの喉に突き刺す真似をしながら、安心させるようにホロウの手を強く、優しく包み込む。

 

「ふたり一緒に、死にましょう」

 

 それはホロウにとって、これ以上ないほどに心温かな愛しさに満ちた言葉だった。

 その言葉にゆっくりと頷くと、ホロウは幼気でありながらも慈愛と可憐さに満ちた目の前の愛しい人の唇に、そっと口付けをした。

 

 

 この世界にたった2人だけ。

 

 端から見れば悲劇にも思える状況でも、2人は心の底から嬉しい、幸せだと感じてやまなかった。

 

 それは人々の言う“幸せ”とは意味の異なっているものかもしれない。例えば宝石とガラス玉のような、決定的な違いがそこにはあるのかもしれない。

 

 けれども、2人にとってはこの結末がこれ以上ない程の“幸せ”であり、2人だけの“幸せ”だった。

 

 2人はこれからずっと、この世界で2人ぼっち。