第6項【寄り添う赤青】


少女と男は、

それまで住んでいた街を離れて

旅に出ました。

 

人を殺してしまった男が

あのまま街に居れば危険だと思ったのです。

 

なにより少女は、

どんな危険な旅よりも

男と一緒に居られなくなることの方が嫌でした。

 

大昔の大罪人と、

片目のない少女の

2人の逃避行が、

幕を開けた瞬間でした。

 

男と少女は長い間歩き続け、

やがて森へと入っていきました。

 

そして2人が小さな小屋を見つけて

休もうとした時、

2人めがけて矢が飛んできました。

 

何人もの兵隊が、2人を襲ってきたのです。

 

男は少女を庇いながら、兵隊と戦いました。

やがて兵隊の数が減ると、残っていた兵の一人が

少女に矢を向けて男を脅迫し始めます。

 

男が矢を避ければ、

少女が矢に射抜かれて死んでしまう。

 

自分が足手まといになっていると感じた少女は、

泣きながら男に言いました。

 

「無理に私を守らなくてもいいわ。あなたの足手纏いになんて、なりたくない…」

 

涙を流す少女に、男は言いました。

 

「おれが今、こうしていられるのは、お前があの時おれを目覚めさせてくれたからだ。

そのお前を守りたいと、おれ自身が望んでいる。だからお前は、何も気にしなくていい」

 

その言葉は、少女にとっては嬉しすぎるほどに

優しい言葉でした。

 

やがて、兵隊たちを率いていたある国の皇子が

現れました。

皇子は少女に矢を向けていた兵隊を

「国の誇りに反するから」と

あっさりと切り殺してしまい、

 

男と少女を見逃して去って行ってしまいます。

 

「今回は退こう。だが次はこうはいかない」

と言い残して去っていく皇子と、

それに追従する兵隊たち。

 

その後ろ姿を眺めながら、

少女は不吉な予感に囚われていました。

 

いずれ大きな不幸が自分たちに

降りかかってくるような、

そんな気がしていたのです。

 

 

 

 あれから2人は森の中に見つけた小屋でようやくの休息を得た。日はすっかり落ち、当たりは夜の闇に包まれている。

 学校へ行かなくなってから運動などをしてこなかったらしいアイビーは小屋の隅で丸くなって眠ってしまい、ホロウはその横でただじっと座り込んでいた。

 

(…思っていたよりアイビーの疲労が激しいな)

 

 ちらり、と隣で眠るアイビーを視覚する。あまり良くはない顔色や深く眠り込んでいる状態など、彼女の状態をスキャンして詳細にデータ化するとその疲労の深さは一目瞭然だった。

 

 恐らく長旅に慣れていないのだろう。人間は適度な運動を続けていなければ筋肉が衰え、運動能力が低下してしまうとのデータがある。

 

 つくづく不便な生き物だと、ホロウはアイビーの状態に気を配りながらも考える。

 

 機械人形であるホロウも定期的なメンテナンスとパーツ交換を必要とするが、人間ほど不便ではない。

 むしろ腕や足を欠損しても互換性のあるパーツさえあれば挿げ替える事が出来る分、人間よりは遥かにコストパフォーマンスは高いに違いなかった。

 

 現にホロウのボディも、何度となく修理とパーツ交換を繰り返している。製造当初のパーツをなどほとんど残っていない筈だった。

 

「…そういえば、初めてだな。何かを防衛しながら戦うというのは…」

 

 記憶メモリーをくまなく漁ってみても、過去に何かを防衛しながら戦ったというデータは出てこない。出てくる戦闘データといえば、殲滅、攻撃、襲撃、破壊などの偏ったものばかりだ。

 

 過去の戦闘ではアスタロトと通信でやりとりをしながら現地で自分だけが戦う、といった方式を採用していたため、現地で主と共に戦っている今の事態は少々イレギュラーなのかもしれない。

 

 カメラアイを動かし、アイビーから視線を外して頭上を仰ぎ見る。老朽化した小屋の天井は一部が脆くなっていて、僅かに空いた隙間から夜空が覗いていた。

 

「んん…ホロウ…」

 

 傍らのアイビーがわずかに身じろぎした拍子にホロウの身体に寄り掛かってくる。触覚センサーから伝わる軽い体重とさらさらした髪の感覚に妙なくすぐったさを感じた。今まで感じた事のない未知の感覚に戸惑い、思考が混線していく。

 

(温かい…?それとも、酸っぱいような…?いや、違うな…難しい感覚だ…)

 

 複雑な感情の処理にコンピュータが追い付かず、自律系の回路が熱を持ち始めた所でホロウは思考を中断した。

 

 けれど、似たような感覚をどこかで味わったような気がした。メモリーには存在しない筈なのにプログラムに引っかかる何かがある。エラーでも起きたのかと思ったが、計器は何も異常を告げては来なかった。

 

「…どうしたの?」

 

 聞こえてきたアイビーの声に、ホロウは傍らを見やる。まだ意識は半分眠りの中に居るのか、アイビーは眠たそうな目でじっとホロウを見ていた。その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

 

「…アイビー、俺と一緒に居るのは危険じゃないのか」

 

 常々抱いていた疑問を、改めて口にする。ホロウと一緒に居たいと、離れたくないと言ったのは他ならぬアイビーだったが、ホロウにしてみれば自分と共に居る事で彼女にメリットがあるとは思えなかった。

 “自分にはホロウしかいない”と彼女は言ったが、先程のように多くの兵士に襲われる事態になったとしても、その気持ちは変わらないのだろうか。

 

 もしアイビーの気持ちが変わっていたら、その時は本当に離れた方がいいのかもしれない――。

 

 そこまで考えた時、ホロウは思考プログラムの奥底でキリキリと痛みにも似た感覚が走るのを感知した。けれど、それがどういった類の感情であるかは分からない。

 身体の傷みとは違う、心の傷み――先程の温かさと同様に、どこかで味わったことのあるような感覚だった。

 

「…たしかに危険かもしれないけど、でも…たとえあなたが殺戮兵器でも、わたしにとってはかけがえのない人よ…ホロウ……」

 

 告げられたその言葉を認識すると同時に、ホロウは痛みに似た感覚が消えていくのを感じた。

 意味もなくアイビーの言葉を何度もメモリーで繰り返して再生しているうちに、先程の温かい感覚が戻ってくる。その感覚の意味が、ホロウには未だに分からなかった。

 

 アイビーはホロウの身体に身を寄せてくる。金属でできたホロウの身体は冷たいばかりで人間であるアイビーの身体が温まる事など有り得ないというのに、アイビーは本当に温かさを感じているような面持ちだった。

 

「わたし、何があってもホロウの傍にいる……絶対、ホロウを見捨てたりなんかしないわ」

「アイビー…。なぜ、そこまでおれに拘る?おれはお前に、何も……」

 

 自分は彼女に、大した事をしてやれた訳ではない。けれどそう言いかけたホロウの口を、アイビーは人差し指を当てて制止した。和めるような状況でもないだろうに、彼女はまるで平和な日常の中にいるかのようにくすくすと笑っている。

 

 この状況にはおよそ似つかわしくないその笑みを、しかしホロウは忘れたくない情景としてはっきりとメモリーに刻んでいた。

 

「ねえ、ホロウ…わたし、あなたが好きよ」

 

 まるで世間話をするような気軽さで、アイビーがぽつりと呟く。

 好き――告げられたその言葉の意味を、ホロウは判断することができなかった。

 前後の文脈を分析してみても、アイビーの言う「好き」が果たして物への執着なのか、誰かへの愛情なのかが分からない。或いはホロウが人間であったなら、このような悩みを抱えずとも済んだのだろうか。

 

「…ホロウと出会えていなかったらと考えるとぞっとする」

 

 判断が付けられずにいるホロウに、アイビーは身を乗り出してそっと口付けた。頬に触れる柔らかな感触に、ホロウはようやく彼女の言う「好き」の意味を理解する。

 アイビーはすぐに唇を離すと、照れくさそうにはにかんだ。人間とは違って硬質で冷たい金属の味しかしない口付けは、彼女にとっては至高の蜜であったらしい。

 

 世間一般からすれば幸せとは言い難く、平穏から遥かにかけ離れたこの状況で、アイビーは穏やかに微笑んでいる。

 ホロウはその笑顔を、できる事ならば生涯メモリーに刻んでおきたいと強く願った。

 

「あっ…見て、ホロウ!あそこに、ほら…!」

 

 ふと、アイビーがどこかを指差した。その方向にカメラアイを向けると、植物らしき生命反応が存在していることが分かる。その形状を見るに、一輪の花が咲いているようだった。

 背の高い茎に、いくつもの桃色の花を咲かせた見事なそれは、風化した小屋の中で崩れた天井から差し込む光を糧に、逞しく生きている。

 

 ホロウはその花の名前を検索しようとしたが、デストルクシオンに居た頃と違ってアスタロトが製造した大型コンピュータにアクセスできない今の状況では、その花の名前を知る術がなかった。

 

 殺戮兵器である自分に、花の名前などインプットされている筈もない。ホロウ自身も今まで花に興味など持たずにいたのだから、データが無いのも当然だった。

 

「アイビー…この花の名前を知っているか?」

 

 何気なく尋ねると、アイビーは笑顔を浮かべたまま頷いた。年相応に花に興味があるらしい彼女は、花を慈しむように眺めながら告げる。

 

「この花はね…グラジオラス。たしか、別名はスウォード・リリー…だったかしら?」

「スウォード……リリー…?」

 

 その名前を認識した瞬間、ホロウのメモリーにノイズが走った。今までアクセスできていなかった様々な情報が解放されていき、映像や音声が一気に奔流となって押し寄せる。

 

「っ、く…!」

「ホロウ…!どうしたの!?」

 

 心配そうに覗きこんでくるアイビーに、返答をする余裕もない。ずっと戒められ、開くことが出来なかった情報――“思い出してはいけない”としまいこんでいたメモリーのロックが次々と外れていき、鮮明になっていく。大量のメモリーが、リロードされ再生されていった。

 

 その中の一つ――メモリーの最下層に仕舞い込まれていた映像が、ひときわ大きな渦となってホロウの思考を容易く飲み込んだ。

 

 鮮明に再生されるのは、ずっとアクセスできていなかったメモリー。アスタロトの娘に関する、最後の記憶だった。