第7項【悪いことは忘れよう】


男と少女は、

小さな小屋で少し休むことにしました。

 

少女が休んでいると、

ふと男が話しかけてきます。

 

「俺と一緒に居るのは危険じゃないのか」

 

どこかゆらゆらとした不安げな言葉に、

少女は笑って答えます。

 

「…たしかに危険かもしれないけど、

でも…たとえあなたが大罪人でも、

わたしにとってはかけがえのない人よ…」

 

少女の言葉に、男は少し驚いたようでもあり、

安心したようでもありました。

 

少女は男の冷たい身体に寄り添って、

笑いかけます。

 

「わたし、何があってもあなたの傍にいる…

絶対、あなたを見捨てたりなんかしないわ」

 

「なぜ、そこまでおれに拘る?

おれはお前に、何も……」

 

男の言葉をさえぎって、

少女は男に静かなキスをしました。

 

頬に触れるだけのそれに、

男は思わず口を噤んでしまいます。

 

「ねえ、わたし…あなたが好きよ。

あなたに逢えていなかったらと思うと、

ずっとする」

 

少女が紡いだその言葉を聞いて、

男はどこか穏やかな表情をうかべました。

 

けれど、やがて男は苦しみ始めます。

昔の記憶が―――男がずっと忘れていた記憶が、蘇ってしまったのです。

 

それは、数百年前の、悲しい記憶でした。

 

 

 

 今から300年前。8月10日の午後16時32分45秒―――それが、初めて起動した瞬間の日時だった。

 ヒューマノイドは通常、ボディが完成した後に言語やマップデータ、動作パターンなどの様々な情報をインプットされる。そうしてテスト起動を経た後、起動コードを入力されて初めて稼働することができるのだ。

 

 だが、ホロウの初めての目覚めはあまりに唐突だった。

 

 情報のインプットが完了してテスト起動を控えていたホロウは、ある日突然起動コードを入力されて目が覚めた。場所は、アスタロトの研究所。アスタロトが製造した様々なロボットやヒューマノイドが行き交う、金属でできた硬質な建造物の中だった。

 

 様々な回路が接続され、インプットされた情報や自分の規格、役目、可能な動作などを次々とローディングしていく。やがてすべての情報を読み込み終えると、ホロウはゆっくりと瞳を開いた。

 

 起動して一番初めにカメラアイに映ったのは、鮮やかな金の髪だった。

 

「ねえねえ、あなた…だあれ?」

 

 大量のコードに繋がれて直立した状態でポッドに入っているホロウを覗き込んでいるのは、ホロウの腰ほどしかない身長の少女だった。どうやらホロウの起動コードを入力したのは彼女のようだ。

 

「あ、そっか!自己紹介は、自分からしないとだめなんだよね!えっと、えっとね……

わたし、リリーっていうの!リリー・スウォード!あなたは?」

 

 少女はぱっと花咲くような笑顔で、ホロウに笑いかける。

 どうやら感情を身体全体で表現するタイプの人間であるらしく、ぴょんぴょんとその場で跳ねたりぐっと身体を近づけてホロウをのぞき込んだりと様々な動作を行っていた。太陽の光を思わせるような鮮やかなブロンドのポニーテールが、それに合わせてゆらゆらと揺れる。

 

「…対人殲滅用近距離戦闘型ヒューマノイド。固有名は設定されていない」

「た、たいじ、ん…?なんか、むつかしい名前ね…よしっ!わたしがもっとかっこいい名前、つけてあげる!」

「…固有名の設定か」

「そ!名前!んー…何がいいかなあ…」

 

 目の前でうんうんと考え始める少女――リリーの様子を眺めながら、ホロウは彼女の情報を次々とインプットしていった。起動して一番最初に確認した人物の情報は、ホロウにとっては何より重要なものだ。

 やがてリリーは、何かを思いついたらしく自信ありげな笑みを浮かべた。

 

「…あ、そうだ!“ホロウ”っていうのは、どう?」

「ホロウ…?」

「そ!どう?カッコいいでしょ!」

「異存はない。入力が完了した…おれの固有名は、ホロウ…か」

 

 ゆっくりと復唱し、新たに設定された固有名を定着させる。その様子を見て、リリーはどこか嬉しそうに笑っていた。

 

「…リリー・スウォード。お前がおれの“主”だ。何か、命令はあるか」

「あるじ…っていうのはわかんないけど…。でもホロウって、お父さんが造ったロボットなんだよね?そうだよね?」

「…おれの製作者はアスタロト・スウォードだ」

 

 リリーの質問に澱みなく答えると、リリーはぱあっと表情を輝かせる。どうやらホロウの返答はリリーの質問に対して肯定の意味を持つものであったらしい。

 つまり、リリー・スウォードはアスタロト・スウォードの娘…という事になる。

 

 ホロウがまた新たに情報をインプットしていると、リリーは更に身を乗り出してホロウに顔を近づけて来た。その表情はやはり嬉しそうで、大きな瞳がきらきらと輝いているような錯覚を覚えてしまう。

 

「やっぱり!お父さんがあなたを造ったのね!それじゃあ、わたしの方があなたよりおねえちゃんになるのね!」

「…製造され、誕生した日時の早さで言うなら、そうなるが」

「そっかぁ…えへへ、おねえちゃんだぁ♪わたし、ずっと弟が欲しかったんだぁ!」

 

 人間とヒューマノイドでは、誕生するまでのプロセスに――ヒューマノイドの「初起動」を人間の「誕生」に置き換えるならば、の話であるが――大きな違いがある。ヒューマノイドは通常、人間の補佐を主な役割としている。両者の立場や役割は大きく異なっているのだ。

 

 人間とヒューマノイドをきょうだいとして捉える事は、ほとんどない。けれど目の前の少女はホロウがヒューマノイドである事を全く気に留めていない様子で、“弟”の誕生を心から喜んでいるように見えた。それは、彼女が年端もいかない少女であるが故なのだろう。

 

「ねえ、ホロウ。おねえちゃんからのお願い。お父さんのこと、てつだってあげて?お父さん、忙しいみたいなの。でも、ホロウがお父さんをてつだってくれれば、お父さんが暇になって、遊んでくれるでしょ?」

「…了解した」

「あ、ホロウもいっしょに遊ぶんだからね!わかった?」

「おれに遊戯のデータは入っていないんだが」

「いいの!わたしが教えてあげる!なんたって、おねえちゃんだからねっ!」

 

 初起動にしてはやや騒がしく、賑やかすぎる出逢い。これがホロウにとっての誕生の瞬間であり、“主”を認識、設定した瞬間でもあった。

 

 

 それからホロウは再度スリープモードに入り、やがてアスタロトによるテスト起動、本格起動を経て稼働に至った。

 

 主であるリリーからの“命令”に沿ってアスタロトに従い、戦争撲滅を掲げる彼に命令されるがままに行動した。戦争行為を行うすべての人間の抹殺、各国の武力と成り得る兵器の破壊などの殲滅・破壊行為を行い、大量の人間を抹殺した。

 

「ホロウ、私はね…戦争が憎くて憎くて、仕方がないんだ。私から妻を奪い、リリーを傷付けた戦争が…」

 

 メンテナンス中のホロウに、アスタロトは度々語りかけて来た。けれど、メンテナンス中で発声のための機器を停止させているホロウに返答する術は無い。

 

「リリーを見ただろう?オマエなら既にスキャン済みだと思うがね、リリーは戦争のせいで身体の半分を失ってしまっているんだ。私はなんとか、リリーの身体を半分機械化してリリーを生かした…失いたくなかったからだ」

 

 メンテナンスの為に動作の全てをストップされているホロウは、アスタロトの様子をただじっと視認する。アスタロトは計器類をいじりながら、それでも独白をやめなかった。

 

「リリーが寂しくないように、たくさんのロボットを作った。私は憎くて憎くて仕方がない戦争を早く撲滅しないといけないからね。リリーの世話や遊び相手は、全てロボットがやっている。

ああ、リリー…もう少しの辛抱だ。くだらない人間どもを根絶やしにしたら、いくらでも遊んであげるからね…!あぁあ、リリー…!!」

 

 狂気、殺意、悲しみ、憎しみ――アスタロトの瞳には、様々な感情が入り混じっているように見えた。その根底にあったのは一人娘であるリリーの存在だ。

 

 娘を想う親の気持ちというのは一般的かつ温かな親愛の情であるが、それがここまで狂ってしまうこともあるらしい。

 人間ならアスタロトの狂気に恐怖なり畏怖なり抱くのが普通なのだろうが、ヒューマノイドであるホロウは、製造者であるアスタロトに対してそういった感情を抱く事はなかった。ただ、命令に従うのみだ。

 

 メンテナンスが終わり、時間が開けば主であるリリーの元へ行って遊びの相手をする。やがてアスタロトから指令が入り、“戦争行為をする人間の殲滅”という役割をこなす。

 

 どこか歪な日常は、そうして過ぎて行った。

 

 そして、“あの日”が訪れた。

 

 

 ホロウに殲滅行為を繰り返させるアスタロトを危険だとみなしたデストルクシオンの国家は、アスタロトの研究所を突き止めて軍隊を派遣した。

 

 警備システムが異常を告げ、研究所に警報が鳴り響く。メンテナンス中であったホロウは起動が遅れ、軍隊は研究所の中まで押し入った。

 

「な、なに!?なんなの!?だれ?やめて!いたいことしないで!」

 

 聴覚センサーに届く、リリーの悲鳴――それを確認した瞬間、ホロウは素早く起動した。メンテナンス用のポッドから飛び出すと、すぐ近くで軍人の一人がリリーを取り押さえようとしているのが見える。

 

「ホロウ!ホロウっ!!たすけてぇ!!」

 

 悲痛なその呼び声を認識すると同時に、ホロウは駆け出した。リリーを床に引き倒している軍人の頭部めがけて、思い切り拳を突き出す。人間の拳とは強度も硬度もけた違いに設計されているホロウの拳は、容易く軍人の頭部を抉らせた。

 

「…ぐ、げえっ!」

 

 歪な声を上げて崩れ落ちる軍人を、ホロウは蹴飛ばしてリリーの上から退かす。軍人の生体反応が消失したことを確認すると、リリーの身体を抱き起した。

 リリーはおびえた様子で、小さな体をかたかたと震わせている。

 

「…大丈夫か、リリー」

「え…あ、ホロウ、あの…あのひと…?」

 

 声を震わせながら、リリーが倒れた軍人の方を指さす。目の前で人間が絶命したショックが大きいらしい。ホロウは無感情な瞳で絶命した軍人の死体を眺めながら、淡々と事実を報告した。

 

「ああ…危険分子は排除した。生体反応は消失している。心配はいらない」

「しんじゃった、の…?なんで、なんで!?」

「おれがそうした。戦争行為をする人間の殲滅が、おれの役目だからな」

 

 ホロウの言葉に、リリーは目を丸くした。そして、何かを悟ったようにその表情がくしゃりと歪む。

 恐らくは、自分がホロウにしていた“お願い”の意味を――アスタロトの“仕事”の意味を、悟ってしまったのだろう。小さな子どもというのは、どこか聡い生き物だ。

 

「じゃ、じゃあ…わたし、ずっとホロウに…人を、ころさせてたの?人ごろしの、てつだいをさせてたの?」

 

 涙をぼろぼろと零しながらの質問に、ホロウは答える事が出来ない。正確に言えば殲滅はアスタロトの指示だが、ホロウがそれに従ったのはリリーの「アスタロトを手伝って欲しい」という命令があったからだ。だが、その事実を告げようとしても、プログラムされた感情が邪魔をする。

 

 リリーを――姉を、これ以上傷付けたくない。リリーの涙を、これ以上見たくない。

 

 それはホロウが初めて覚える、複雑な感情だった。けれど、状況はその感情に浸る余裕すら与えてはくれない。

 部屋に入ってきたアスタロトが、無感情な声でホロウに指令を告げたのだ。

 

「…ホロウ、ここに居たか。突入してきた軍隊が、撤退していった。後を追って、皆殺しにするぞ。来い」

「…了解した」

「ほ、ホロウ…!」

 

 涙を零しながら、リリーがホロウの身体に縋りつく。小刻みに震えながらも必死に縋ってくる小さな身体に、思考プログラムの奥底から痛みにも似た感覚とノイズが走った。

 

 ずっと真実を告げずにいた。ずっと騙していた。言われるがままに行動し、結果的にはリリーにとって一番残酷な選択をさせてしまっていた。

 「聞かれなかったから」「リリーは知らなかったから」というのは理由付けに過ぎないのだ。

 

 それまで機械的に従い、深く考える事をしてこなかった自分自身を、ホロウはひどく恨んだ。

 戦闘ばかりで感情の発達が遅れていた彼にとっては、あまりに遅すぎる“後悔”の発露だった。

 

「リリー、危ないから隠れていなさい。私たちが戻るまで、決して出て来てはいけないよ?」

 

 ホロウの様子など気にも留めずに、アスタロトがそっとリリーをホロウの身体から引き離す。娘の頭を優しく撫でると、研究所を出て行った。

 ホロウはリリーの傍を離れたくは無かったが、しゃくり上げるリリーは「行かないで」と命令を出すことができないようだった。命令さえしてくれれば、ホロウは主であるリリーに従うのに。

 

 アスタロトに従わない選択は、主であるリリーの命令に背くことになる。リリーが新たな命令を出せずにいる今、ホロウに選択の余地は無かった。

 ホロウは後ろ髪を引かれるような思いで、涙を流すリリーを独り残してアスタロトに続いて研究所を出て行った。

 

 

「ひぃ…ひいいい!やめてくれ!やめてくれぇ!!」

 

 アスタロトの命令によって強制戦闘モードに入ったホロウは、悲鳴をあげる軍隊を次々と殲滅していった。ホロウの感情や意志では止める事が出来ない殲滅行為は、やがて軍人が一人残されるまで続いた。

 

 あと一人――ホロウは思考の奥に走るノイズを感知しながらも、ゆっくりと軍人に歩み寄る。

 最後の一人となってしまった軍人は、必死に銃を構えながら後ずさりした。腰が抜けているのか、地面にへたり込みながら足と手を使って必死にホロウから離れようとしている。無意味な行為だ。

 

「いやだ…いやだぁ!死にたくないぃ!!」

 

 涙や汗を流しながら喚き散らす軍人に、ホロウは何も言わずにブレードを構える。突きの体制で狙うのは、軍人の左胸――心臓だ。

 

 ここを刺せば、人間は一突きで死んでしまうだろう。それでいい。それが自分の役目であり、生み出された理由だ。自分の感情一つでこの役目は覆せない。たとえリリーの涙に感情が悲鳴をあげていようとも、覆る事は決してない。

 

 そうして、ホロウが無言のままにブレードを繰り出そうとした、まさにその時だった。

 

「――ホロウっ!」

「…っ!?」

 

 突然聴覚センサーに響いたその声に、ホロウの動作がピタリと止まる。その隙を突いて、ホロウが構えたブレードと軍人との間に、割って入る小さな人影があった。

 血と死臭にまみれたこの状況に似つかわしくないほどに小さなその体躯は、けれどホロウのブレードを食い止めんとするかの如く立ちはだかっている。

 

「…リリー!?」

 

 ホロウの背後で指示を飛ばしていたアスタロトが、驚きの声を上げる。リリー、とホロウも口の中で小さく呟いた。

 リリーは涙の跡が残る顔で、けれど今にも泣きそうな表情を浮かべながら、じっとホロウを見つめる。やがて、その小さな唇が震えた声を発した。

 

「ホロウ…ごめんね、つらい事ばっかりさせちゃってて……」

「リリー…?」

「わたしがなにもしらないで、ホロウに勝手なお願いしたせいで…こんなに、たくさんの人が…しんじゃった…!」

 

 リリーの瞳から、涙があふれ出す。次々と零れる大粒の涙に、ホロウの感情もキンとした痛みと苦しさを覚えた。ブレードを持つ手が震え、カタカタと金属同士が擦れる音が鳴る。

 

「ホロウ…わたしのせいだから…、だから…、」

 

 やめてくれ――リリーの言葉に、ホロウは悲鳴を上げたくなった。涙を流しながら紡がれる言葉の先を、聞きたくないと思った。

 痛みと苦しみ、酷く重苦しく悲痛な悲しみを伴う複雑な感情がせめぎ合い、自律回路への負担が大きくなっていく。

 

 けれど、ホロウの願いは、無残にも打ち砕かれた。

 

「お願い…わたしを、ころして……」

 

 か細い声で紡がれたその言葉は―――“主”からの“命令”は、確かにホロウの聴覚センサーに届いた。届いてしまった。

 

 主の命令には絶対服従。どんな内容であっても、背くことは出来ない。

 それがたとえ主自身を害するものであっても、命令は実行しなければならない。ホロウの意志や感情では、止められないのだ。

 

「――ぁ、ぐ…うぁ……」

 

 太陽の光を思わせるようなブロンドのポニーテールが、揺れる。

 

 小さな身体の中心を、ブレードが寸分違わず貫いた。リリーの体内器官や骨を貫く感触が、ホロウの手にこびり付いて離れなかった。嫌だ、やめてくれ、やりたくない――ホロウの悲痛な叫びは、叶えられる事が無いまま霧散する。

 

「っ、ぁ……ぁりがと…ほろう……」

 

 苦しげな声で喉から血を吐き出しながら、それでもリリーは笑って見せた。涙と血で汚れた顔が泣き笑いのような表情に浮かぶのを見て、ホロウの身体に渦巻いていた苦しみが決壊する。

 

「リリー…、おれは……!」

 

 やりたくない。殺したくない。泣かせたくない。失いたくない。

 

 こうなったのはリリーの所為じゃない。おれの所為だ。リリーは悪くない。

 

 おれの所為だ。リリーは死ぬべきじゃない。おれの所為だ。

 

 複雑で膨大な感情の処理に、自律回路が悲鳴をあげる。頭部内を巡るコードに傷が入ったのか、オイルがカメラアイの隙間から漏れだした。

 どす黒く熱を持った液体はまるで涙のようにホロウの頬を伝い、地面へと零れる。オイルの熱に耐え切れず、生えていた草木が次々と枯れていった。

 

「ほ、ろう…ごめんね、また、つらいこと…させちゃった…。おねえちゃん、失格だね……」

 

 悲痛な笑顔を浮かべながら、リリーはホロウの頬に優しく手を添える。とめどなく漏れ続けるオイルが触れた瞬間、リリーの手の皮膚が音を立てて焼け爛れた。

 熱く苦しい筈なのに、死の間際で痛覚が麻痺しているのか、リリーは苦しむ様子も見せずにホロウの目から溢れる液体を拭っていく。

 

「ほろう…おねえちゃんからの、さいごの…おねがい。きいてくれる?」

 

 リリーは両手でホロウの頬を優しく包み込む。オイルで手が焼け爛れるのも、ホロウにこびり付いた返り血で汚れるのも厭わず、リリーはただ優しくほほ笑んだ。

 

「――忘れて。悪いことは、ぜんぶ。そうすれば、苦しまずに、すむもの…」

 

 ホロウの頬を撫でながら、リリーはゆっくりとした口調で告げる。死によって奪い去られようとしている震える声音で告げられる言葉は、ホロウの中に深く刻み込まれていった。

 

「あなたは、だいすきなわたしの弟……くるしんで、ほしくないの…。

 

悲しいでしょう、苦しいでしょう…?だから、悪いことは、忘れよう。

 

眠って、ホロウ。ずっとここで――」

 

 それが、彼女の最期の言葉だった。

 

 それから何をしたのかは、定かではない。逆上してホロウを破壊しようとしたアスタロトを殺し、逃げていく軍人を追う事もせず、ただ黙ってリリーの亡骸を見つめていた。

 

 気が付くと、研究所に戻っていた。血とオイルに塗れた手でリリーの亡骸を横たえると、ホロウはその場に崩れ落ちる。頭から倒れると脳内でアラートが鳴り響くが、無視を決め込んだ。

 

――忘れて。悪いことは、ぜんぶ

 

 リリーの声が、最期の言葉が、繰り返し再生される。

 それは緩やかな呪詛のように、優しくホロウの意識を包み込んでいった。意識が白濁し、プログラムが次々と閉じられていく。

 

――悪いことは、忘れよう

 

 記憶ファイルに次々とロックがかかっていく。回路が停止していき、ホロウは静かに瞳を閉じた。

 

 やがて、ホロウは機能の全てをシャットダウンした。