第8項【禍災に飲まれる赤眼】


男は、思い出せなかった記憶を

全て思い出しました。

それは、とても悲しい記憶でした。

 

男は狂気を持った人間によって生み出され、

初めて目を覚ました瞬間に、

ひとりの女の子と出逢っていました。

 

それは、男の生みの親である人間の、

実の娘でした。

 

女の子は、自分が男の姉になると言って

男によくなついていました。

男も女の子の言うことをよく聞いて、

一緒に遊んでやっていました。

 

けれどその一方で、

男は生みの親の指示に従って

人殺しをしていました。

 

それは、女の子にお願いされたから。

 

「お父さんを手伝って」

と女の子に言われていたから、

男は人を殺し続けました。

 

やがて真実を知った女の子は、

自分のお願いのせいで人が殺されていたことに

責任を感じて、泣いてしまいます。

 

そして、男に言いました。

 

「おねがい。わたしをころして」

 

男は、女の子が願う通りに、

女の子をころしてしまいました。

 

それが、男が思い出した

悲しい悲しい記憶の正体でした―――。

 

 

 

 突然再生されたメモリーは、一瞬にしてホロウの思考を停止させた。リリーが死ぬ寸前にまで浮かべていた笑顔が、彼女の身体を貫いた感触が、彼女の言葉が、彼女の涙が、寸分の狂いもなく鮮明に呼び起こされる。

 

 ずっと読み込めなかった、「思い出してはいけない」と戒められていたメモリーは、決して豊かではないホロウの感情を悲しみと苦しみで埋め尽くしていった。

 

 膨大な量の感情に処理が追いつかなくなっていき、アラートがいくつも鳴り響く。

 

「っ、うう…、があああああっ!」

「ホロウ…っ!どうしたの?大丈夫!?」

 

 強烈なノイズがいくつも走り、頭部を抑えて呻く。傍らに居るアイビーが心配そうに呼びかけてくるが、返答している余裕などは無かった。

 今も尚、リリーを殺した時の手の感触が鮮明に再生されている。やめてくれと何度も叫ぶが、悲しみの記憶に混乱したプログラムは、何度も何度もあの時の感覚を呼び起こし続けた。

 

「り、リリー…!リリー…ッ!おれは…、おれが……リリーを…っ!」

 

 死の間際にリリーが見せた笑顔が、焼き付いて離れない。それを振り払おうとして何度も何度も悲痛な叫びが口から漏れた。力の調節がうまくいかずに、頭部を抑える手が強張って軋む。

 

「―――ホロウっ!!」

 

 その時、感情とメモリーが行き交う隙間を縫って聴覚センサーに届いたアイビーの声に、ホロウははっとした。複雑な感情と再生され続けるメモリーで混乱していた回路が、途端に終息していく。

 

 ふわり、と柔らかな感触に身体が包まれた。見るとアイビーが正面からホロウを抱き締めて、優しく頭を撫でている。

 

「大丈夫…、大丈夫だから…ね?」

「あ……あいびー…」

 

 小さな声で彼女の名前を反芻すると、アイビーは少しだけ身体を離して薄くほほ笑んだ。

 その笑顔と言葉に、プログラムの混濁はすうっと収まっていく。そして、少しの痛みと悲しみと甘酸っぱい不思議な感覚だけが残った。

 

「……っ、アイビー…」

 

 複雑な感情を口に出そうとはせずに、ホロウは力なく彼女の背に手を置いた。

 

 

 夜が明けると、ホロウとアイビーは小屋を離れて再び歩き始めた。小屋にいつまでも留まっていたのでは、いつまた誰に襲われるか分かったものではない。

 

 その道中で、ホロウは呼び起こされたメモリーと、リリー・スウォードの事をアイビーに話して聞かせた。

 自分が記憶している事を全て包み隠さずに打ち明けると、アイビーは悲しげな顔をして、何も言わずにホロウを抱き締めるのだった。

 

 本当に、自分は彼女を泣かせてばかりだ。ホロウは歩みを進めながら、けれどそれでもアイビーの傍を離れようとは欠片も思わなかった。

 

 やがて、2人は簡素なスラム街に辿り着いた。地図には載っていないその街は、どうやら国から逃れた亡命者や爪弾きにされた者達が集ってできた、国の認可を受けていない街であるらしい。

 

「ホロウ、ここで少し休んでいきましょうか」

 

 道中で何度も兵士と遭遇して戦闘を行ってきたホロウを気遣ってか、アイビーが明るい口調で提案してくる。人間である自分の方が疲労も大きいだろうに、彼女はそれを見せたがらなかった。

 最も、ホロウは彼女の発汗量や歩き方などから疲労度を分析しているので、あまり意味は無いのだが。

 

「…そうだな。情報収集も必要だ」

 

 ホロウは頷きながら、乱れていた外套を直す。追ってくる兵士たちの事を考えると、ここに長居するのは危険だった。長くても一晩だけの滞在になるだろう。

 

 その間にアイビーを休ませ、今のクレアシオンの情勢に関する情報を集めなければならない。

 

 それに、とメモリーを反芻する。アルムバントの領内で出逢った他国の皇子――アーベントの事を反芻した。

 ダクテュリオスの皇子である彼が、アルムバントの領内に居た。その事がどうにも不可解だ。

 

(…戦争の予兆、なのかもしれないな)

 

 最悪の事態を考えて、ホロウは知らずのうちにため息を吐いた。もし戦争が起こってしまえば、ホロウは強制戦闘モードに入る可能性が高くなる。そうなった時、アイビーを悲しませずにいられる保証があるのだろうか。

 

「…よお、どうしたんだ兄ちゃん。しけた面してよ」

 

 ふと、道端に座り込んでいた男が声をかけて来た。ホロウはアイビーを守るようにして立ちながら、男をじっと見つめる。ぼさぼさの髪に、伸びきった髭。恐らく30代後半。手には酒瓶を持っている。武器を隠し持っている様子は見られないが、油断はできない。

 

「…考え事をしていただけだ」

「ふうん、そっか。ひょっとするとあれか?あの噂を聞いたのか?もうすぐ戦争になるっていう」

「…戦争、だと?」

 

 男の言葉をおうむ返しに返すと、男は「知らなかったのか」と目を丸くしながら続ける。

 

「ああ、そうだよ。つい昨日、ダクテュリオスがアルムバントに宣戦布告しやがった。それとほとんど同時にアルムバントの砦が落とされたんだってよ。おっかねえ話だぜ」

 

 昨日―――ホロウがアーベントと邂逅した日の事だ。

 あの時のアーベントは兵士たちよりも遅れてやってきていた。恐らくは宣戦布告と同時に砦を陥落せしめた作戦に、彼は参加していたのだろう。その帰り道で、ホロウの調査をしに現れた―――ホロウは僅か数瞬の間にそこまで分析を終えた。

 

「確かなのか、その情報は」

「ああ。砦を落とすダクテュリオスの軍勢を見たって奴が何人も居る。近々、またどっかで小競り合いが起こるんだろうさ」

 

 男は酒瓶の中身を煽りながら、赤くなった顔でぺらぺらと話している。ホロウはその言葉の内容から必要な情報だけを引き出して記憶していった。

 男の態度に、嘘をついている様子は見られない。信用に足る情報かは分からないが、少なくとも多少の信憑性はあるようだった。

 

(…一応、他の人間にも話を聞いて裏をとる必要があるな)

 

 ホロウが静かに分析していると、男はやにわに言った。

 

「そうだ!兄ちゃん達、疲れてねえか?俺の家に泊めてやっから、ついて来な!」

「えっ、でも…」

 

 突然すぎるその提案に、背後でアイビーが戸惑いの声をあげる。

 

 ほとんど初対面である男にそこまでしてもらうのは悪いと思っているのか、男を信用できずについて行っていいものかどうか迷っているのか。アイビーの性格からして、そのどちらもを抱えているのだろう。

 人を疑う事をしない優しい性格だが、人を簡単に信用できないほどにトラウマを抱えさせられた経験もしているのだ。

 

 けれど、アイビーは少しばかり逡巡した後、笑顔で男に頷いた。

 

「それじゃあ、お言葉に甘えます」

「アイビー…」

「大丈夫よ、ホロウ。何かあったら、貴方と一緒にすぐ逃げるから…。それに、この人は悪い人じゃない気がするの」

 

 主であるアイビーに言われてしまっては、ホロウには逆らう術はない。もしもの時は自分のボディを盾にしてでもアイビーを守り通そうと決めながら、ホロウはアイビーと共に男の後をついて行った。

 

 

 男の家はスラム街の外れにあった。質素な外観に違わず内装もまた簡易的なもので、薄いラグマットが敷かれただけの石造りの床の上に、男は無造作に腰を下ろした。

 アイビーが薄い座布団の上に腰掛けるのを確認してから、ホロウは直接ラグの上に座った。辺りには衣類や空の酒瓶などが転がっていて、お世辞にも片付いているとは言えない状態だ。

 

 男はハイノと名乗った。妻子に先立たれてから長い間このスラム街で一人暮らしをしているらしく、アイビーとホロウを家に招いたのは単なる気まぐれなのだと言う。

 

「ま、自分の家だと思ってゆっくりしてってくれや。今夜はご馳走にすっからな」

「…おれ達の名を聞こうとはしないのか」

 

 人が良さそうな笑みを浮かべるハイノに、ホロウはぽつりと尋ねる。家に案内すると言った時から今の今まで、ハイノはアイビー達の素性はおろか名前さえも尋ねようとはしないのだ。

 ハイノは相変わらず笑みを浮かべたまま、気楽そうに答えて見せた。

 

「ここにゃ訳アリの奴らが多いからな。無暗に人の事を探らないってルールなんさ。それによ、名前なんか知らなくたって別にいいじゃねえか、楽しく酒が飲めるならよ」

 

 きっぱりとそう言ってのけるハイノの快活さが、今のホロウとアイビーにとってはどこか羨ましくもあった。

 

 

 「ご馳走を用意する」という言葉の通り、ハイノが用意した夕食は量が多かった。少量の肉と野菜が入っただけのスープや干し肉を焼いただけの炒め物などがラグの上に並んでいる。

 

「さ、どんどん食ってくれ。嬢ちゃんも兄ちゃんも、腹減ってるだろ?俺の自信作だ!」

「この料理、ぜんぶハイノさんが作ったんですか?」

「おうよ。誰かの為に料理を作るなんてのは、家族が居た時以来だったがな」

 

 アイビーは遠慮がちに「いただきます」と告げてから、スープを口に運ぶ。そしてすぐに破顔して「おいしい…」と顔を綻ばせた。ずっと強張っていたアイビーの身体から力が抜けていく。

 アイビーの反応に、ハイノは満足げにうんうんと頷いた。

 

「嬢ちゃん達を見てると、娘と息子の事を思い出すなあ。生きてりゃあ、きっとお前さん達と同じくらいだ。特に兄ちゃんなんか、息子にそっくりだ。まるで、成長した息子を見てるようだ…」

 

 ホロウの顔をじっと見つめながら、ハイノは寂しげに目を細める。死んだ息子の事を思い返しているのだろう。自分には関係のない事だと分かっていても、ホロウは思考の奥が軋むのを感じた。

 

「…どんな人間だったんだ、ハイノの息子は」

「優しい奴だったさ。俺に似て不器用で、不愛想だったけどな。……親より先に逝っちまった、とんだバカ息子だよ」

 

 ハイノの言葉を聞きながら、ホロウはじっと目の前のスープを見つめる。

 この料理を口に運び、その味をハイノに伝える事が出来たら、どんなにいいだろう。見ず知らずの自分たちを家に泊めてくれたハイノに、味の感想を伝える事で僅かながらも恩返しをできたら、どれだけいいだろう。

 

 けれども現実は残酷で、ホロウはハイノが振る舞ってくれた料理を、口にすることは出来ないのだ。

 それを口に運べば、喉奥にある回路やコードに影響が出てしまう。ハイノの料理を食することもできなければ、どういった味なのかも分からない。食の楽しみの一切が分からなかった。

 

「ハイノ…、おれは、」

「なあ、兄ちゃん」

 

 たまらなくなってホロウが何事かを呟きかけた時、それを遮るようにしてハイノが言葉をかけて来た。見ると、ハイノは真剣な目でホロウのカメラアイを見つめてくる。

 

「お前がどんな奴でもいい。どんな事をしてたっていい。ただ…どんな形であれ、あの嬢ちゃんだけは…ちゃんと幸せにしてやれよ。周りに何を言われたって、お前がやりたい事をやれ。お前がやりたいようにやれ。それであの嬢ちゃんが笑っていられるんなら、な」

 

 それは、ホロウに言っているようにも、ホロウを通して別の誰かに向けられているようにも思える言葉だった。過去に誰かに言ってやれなかった言葉を、ホロウに言っているような響きがある。

 

「ああ…その、つもりだ」

 

 ホロウが答えると、ハイノは満足げに笑顔でうんうんと頷いた。本当に息子に接しているような優しげな雰囲気に、ホロウの思考にノイズが走る。

 

 するとその直後、突然スラム街に大きな音がけたたましく鳴り響いた。

 

「大変だあっ!ダクテュリオスの兵士が、ここを取り囲んでるぞおっ!」

 

 カンカンと警鐘の音が鳴り響き、避難を促す声があちらこちらから聞こえてくる。

 

 即座に聴覚センサーと熱源探知によって周囲の安全確認を図ろうとしたホロウだったが、次いで聞こえた言葉に思わず身構えた。

 

「――戦争だあっ!戦争になるぞおっ!!」