白狼


 この世界では古くから、地底に死者の魂が眠る場所があると信じられてきた。

 

 辺りが夕闇に包まれ、夜の帳が下りる時間“逢魔が時”になると死者の国との道が開かれ、現世に現れた死人の魂は寄り集まって魔物となり、人間を襲うのだ。

 

 生者への妬みか、ただ魔物としての本能のままに襲っているのかは分からない。

 

 しかし何百、何千という人間が魔物の手によって無残な死を遂げたため、死者の国へと続く道は固く封印されることとなった。

 

 そして二度と死者の国との道が開かれる事が無いようにと、神の眷属と呼ばれる獣人の一族が代々封印を守っているのだ。

 

 しかし長い年月が経つにつれて、人間は獣人の一族への感謝の心もありがたみも忘れはじめていた。

 

 

************

 

 

 

 まず一閃、手にした刃を振った。足元に崩れ落ちる男の、腰砕けになった右の脚が根元から切断される。耳をつんざく悲鳴が裏路地に響き渡った。

 

 悲鳴には耳を向けずに、もう一閃。刃を振るうと同時に音もなく男の左脚が切断される。

 

 途端に悲鳴が更に大きくなった。

 

「ひぃ、ひいいいいぃぃ…!」

 

 泣き叫ぶ男の口をロープで縛り付けて言葉を奪う。別のロープで両手を縛り付けると、冷たい道路に男を無造作に転がした。

 

「…ツヴァイだ。対象を確保、指定の場所に安置した」

 

 右耳に装着した通話機に言葉を吹き込むと、即座に了解を示す返答が届く。魔術の研究が進んだことによって作成された通話機は、今や広い範囲にわたって普及していた。

 

 通話を終えると、地面に転がした男には一瞥もくれずにその場を立ち去る。背後から男の呻く声――恐らく「待ってくれ」だとか「助けてくれ」だとか言っているのだろう――には意識を向けない。

 

 大通りに出ると、大勢の人が行き交っていた。それぞれがせわしなく動き、各々目指す場所へと向かっている。その一人一人の胸の中心には、一つの灯火が揺らめいているのが“視えた”。

 

 ツヴァイという名を与えられた彼には、生まれつき人の魂の色が視えていた。

 

 なぜだかツヴァイにしか見えていないらしい灯火は、持ち主の人間が良いことを考えると透き通った青に、良からぬことを考えると血のような赤に、ころころと色を変えた。そのせいで否が応でも周りの人間の考えを見透かしてしまう為、幼い頃はよく思い悩んだものだった。

 

 通行人たちの胸に揺らめく灯火は青と赤、それぞれの色に染まっているが、やはり多いのは赤い色だ。それを一瞥することもなく歩みを進めていると、不意に強い視線を感じて立ち止まった。

 

「何だ…?」

 

 殺意とはまた違った類の視線は、大通りから外れた小さな小道の遥か向こうから届いているように思えた。素知らぬ風を決め込むには、その視線は強すぎる。

 

(得体が知れない視線…正体を確かめる必要があるか)

 

 じっと物陰から見つめるような、それでいてこちらの影を縫いとめて離さずに居るような奇妙な視線は絶えずツヴァイに向けて注がれている。常人ならば気味悪がって無視する程の強い視線だが、しかしツヴァイはその元を辿って歩き始めた。

 

 その胸中には、視線の正体が自分に対して害を成すものであったならその場で切り伏せてしまおうというやや物騒な考えが浮かんでいた。

 

 

 注がれ続ける強い視線を辿っていくと、やがて周囲は舗装されたレンガ貼りの道路から開けた草原へと変わっていた。どうやら、かなり外れの方まで来たらしい。

 

 凹凸が激しい道と、やや高く伸びた草原、背の高い木々。その全てに見覚えがあるような気がして、ツヴァイは奇妙な既視感に囚われながらも歩を進めた。その間にも、視線はずっと注がれている。

 

 やがて、開けた場所に出た。小高い丘の上に一面の花畑が広がり、巻き起こる風に花弁が舞っている。さっと辺りを見渡したツヴァイの視線は、広い花畑の中心で止まった。

 

「…ずっと見ていたのはお前か」

 

 色とりどりの花が咲き誇る花畑の中心で、一人の少女が何をするでもなく佇んでいる。白く長い髪がふわふわと風に揺れ、大きな澄んだ瞳がじっとツヴァイを見つめていた。

 

 ツヴァイは自分をじっと見つめ続ける少女の瞳から、少女の耳へと視線を移した。本来ならば普通の耳があるべきその箇所には、ふさふさとした毛皮に包まれた獣の耳が生えている。少女の髪と同じ白い毛並みに包まれたそれは、狼のものだった。

 

(こいつ、白狼一族か)

 

 それは、“白狼一族”と呼ばれる獣人の一族の証だった。神の眷属とされている、死者の国の封印を守る彼らは、普段は人間の街からかなり離れた場所にある里で生活しているらしい。こんな場所に居ることなど滅多にない筈だ。

 

「また……」

 

 ふと、少女が口を開いた。ツヴァイが視線を戻すと、少女の大きな瞳とツヴァイの瞳が向き合い、視線が絡み合う。

 

 少女は呆けたような表情をしていたが、やがて目を細めて微笑んだ。本当に嬉しそうに、心からの喜びを表現するように、優しい笑みを浮かべている。

 

「また…会えたな……。ずっと会いたかったのだ…ずっと……」

 

 うっすらと涙を浮かべてほほ笑む少女に対し、ツヴァイは無感情のまま何も言わなかった。少女は喜びを噛み締めるように両手を胸の前で握りしめながら、言葉を募らせる。

 

「汝がまだ年端もいかぬ少年であった頃、儂とこうして何度も…人目を忍んで逢引きしたものだ。覚えておるじゃろう?」

「……誤解を招く言い方をするな」

 

 少女の言葉には答えずに、ツヴァイは短く少女の物言いを諌める。けれども少女は怯んだ様子も見せずに、涙を拭ってまた笑ってみせた。

 

「やはりお前だったか…」

 

 彼女の言葉を聞いて、ようやくツヴァイはずっと囚われていた既視感の正体に気が付いた。

 

 アメティスタ・リュコスという名のこの少女は、外見こそ10代の少女にしか見えないが、実際は数百年もの時を生きている。2000年ほどの時を生きる白狼一族の一員である彼女を、ツヴァイはとある縁から知っていた。昔、この場所で会ったことがあるのだ。

 

「汝が居らぬ時間はひどく長く感じたぞ?今は何をしておるのじゃ」

「仕事をしている。今の名はツヴァイだ」

「ふむ…まあ良い。何かの縁だ、これからまた、昔のように逢瀬を楽しもうぞ?ツヴァイ。ほれ、昔のように“アメティ”と呼んでいいのだぞ?」

 

 外見の割には古風な話し方をするアメティは、先程とは別種のにやにやとした笑みを浮かべながらツヴァイに歩み寄る。狼の尾がパタパタと嬉しげに揺れていた。

 

「……俺を見ていたのはお前か、リュコス」

「なんじゃ、他人行儀な奴じゃのう!アメティと呼んでいいと言うておろうが!…まあ、そうじゃの。見ておったのは儂じゃ。久しぶりに汝の姿を見て、ときめいてしまっての」

 

 ツヴァイは恥ずかしげに頬を染めるアメティをじっと見ていたが、やがて踵を返して歩き出した。慌ててアメティが腕を掴んで引きとめてくる。

 

「待て待て!ツヴァイ、どこへ行くのじゃ!」

「得体の知れない視線の正体は分かった。目的を果たした以上、ここに留まる理由は無い」

「ちょ、待て待て!待たんか!」

 

 ツヴァイはそのまま立ち去ろうとしたが、アメティがツヴァイの腕を掴んだままぐいぐいと引きとめて離さない。ツヴァイが肩越しに振り向くと、アメティは儚げに微笑んだ。

 

「無理に来いとは言わぬ。じゃが、もし気が向いたら…また、ここへ来てほしい。儂はずっと、汝だけを待っておる」

「……そうか」

 

 ツヴァイが短く答えると、満足したのかアメティはそっとツヴァイの腕から手を離す。

 どこか寂しげな笑みを浮かべるアメティから視線を外し、ツヴァイは静かにその場を立ち去った。

 

 アメティが背後で微笑む気配がして、ツヴァイはふっと目を細める。

 彼女の胸に視える灯火は、ずっと澄んだ青い光を放ち続けていた。

 

 

 ツヴァイが住む国は着実に発展しているが、その一方で犯罪者の数も急速に増えている。

 増え続ける犯罪者への対策として、政府軍は特に危険だと判断された犯罪者の確保を専門に行う部隊を結成、各地から隊員を徴集した。

 

 ツヴァイがその一人として選ばれ、王都へと連れてこられたのは今から12年前の事だった。

 王都の中心部にある特殊部隊の本部には、現在もひっきりなしに政府からの指令が届いている。アメティとの邂逅を経て戻ったばかりのツヴァイにも、指令は容赦なく飛んだ。

 

「ツヴァイさん、戻ったばかりで申し訳ないんですが、報告を終えた後、また別の仕事へ向かってもらいます。問題ありませんか?」

 

 本部へ到着するなり通信兵から告げられた言葉に、ツヴァイは一も二もなく頷いた。その返答を予期していたのだろう通信兵から、一枚の指令書が手渡される。

 その内容を素早く読んで、ツヴァイは至近距離で観察しなければ分からないほどに小さく眉を潜めた。

 

 指令書には一枚の写真が張り付けられ、「逃げ出した白狼一族の巫女を確保、殺害」とだけ淡泊に記されている。

 

 張り付けられた写真に映し出されていたのは、先ほどまであの花畑で嬉し涙を零して微笑んでいた白狼一族の少女――アメティスタ・リュコスだった。