「―――ツヴァイ!ツヴァイ!ツヴァイッ!!」
白狼の里の、中心部。崩壊しつつある世界の、その元凶たる黄泉の門の前で、アメティは座り込んでいた。声を荒げて叫んでいるのは、自分をあの黒い空間から助け出してくれた愛しい人の名前。
「ツヴァイ…ッ!なぜじゃ!どうして開かん!!どうして入れん!!」
しかしどれだけ叫ぼうとも愛しい人の声が聞こえる事は無く、僅かに開いた黄泉の門の隙間は、まるで不可視の壁でも存在しているかのように侵入者を寄せ付けない。
白狼の巫女であったアメティの魔力を以てしても、どうする事もできなかった。
「……無駄ですよ。僕達には“視えない”ものが…死者の魂が、門を塞いでいる。彼らは、この世界へ出る為に邪魔と成り得るツヴァイをその手で屠るまでは、開くつもりはないのでしょう」
座り込むアメティの、すぐ傍に佇んでいたムジカが、諭すように呟く。
ただ事実を淡々と告げるだけの冷めた声音に、アメティは八つ当たりじみた怒りすら覚えそうになった。
「白狼にすら視えない魂の灯火を…その色を視る事が出来るツヴァイの存在は、死霊達にとっても脅威だ。誰にも邪魔されない空間で、消し去りたいのでしょう。
…このような事態になったのが誰の責任か、分からない訳ではありませんね?アメティスタ」
「……っ」
夜の湖畔のようなムジカの声を向けられて、アメティの身体が強張る。それを知ってか知らずか、ムジカは尚も言い募った。
「門の封印を守るため、その生涯と命を捧げるべき存在である巫女が…人間と添い遂げたい、などと我儘を言って里を抜け出した。その結果が、この惨状です」
「……るさい」
「この上、まだ我儘を言うつもりですか?里からも除名され、世界崩壊の一端を担っておきながら、まだ足りないと?余計に事態を悪くするかもしれないんですよ?」
「…うるさい」
「よくもまあ、そこまで強欲で居られますね。巫女に選ばれるほどの魔力を秘めておきながら、勿体ない事だ」
「うるさぁいっ!!」
我慢が利かず、アメティは憤りのままに叫んだ。里に居る間も、誰に対しても飄々とした態度を崩さなかった彼女の突然の激昂に、ムジカが僅かながらに狼狽する。その隙を縫うようにしてアメティは立ち上がり、ムジカに向き直って襟元を掴んだ。
「貴様に言われずとも分かっておるわ!自分がした過ちの大きさくらい!もう、何もせん方が最善に終わるのだと言うことも分かっておる!!
じゃがな…あやつが!ツヴァイが!!あの絶望の死地で、今も戦っておるのじゃ!!他でもない、儂の過ちの為にな!!!それを、ただ黙って見ているなど、出来る筈がなかろう!!」
「アメティスタ……」
「世界が崩壊しかけているのは儂の責任じゃ!だから、その責任を取るまでのこと!!儂はツヴァイを助け出す!!口を挟むだけなら、黙ってどっかに消えてしまえ!!」
「ぁ……」
アメティのあまりの剣幕に驚いたのか、ムジカは瞠目したまま暫し沈黙していた。やがて幾分か冷静になったアメティがムジカの襟元から手を離すと、ムジカは襟を正しながらため息交じりに呟く。
「…貴方がそこまで感情的になるところを、初めて見た気がしますよ。それだけ、彼に心奪われているのでしょうね」
「そ、それが何だというのじゃ…」
改めてツヴァイへの恋慕の情を言明されて気恥ずかしいのか、アメティが拗ねたように唇を尖らせて目を逸らす。けれども対照的に尾はぱたぱたと揺れていた。
ムジカはそれを見て呆れたような笑みを漏らすと、アメティの背後にある黄泉の門を見上げた。
「本当は、貴方の肉体と精神を切り離した後…精神体となった貴方を消滅させるつもりでした。
貴方がツヴァイの所へ行き、その後死霊に囚われた為にそれは叶わなくなりましたが……この状況では、むしろ好都合ですね」
「…貴様、今さらっととんでもない発言をしおったな?この完全犯罪者未満め」
「アメティスタ。貴方は既に、白狼の里から除名された身…ですから、僕が族長として貴方に介入する理由はありません。ですが…個人的になら、話は別です」
「ムジカ…?」
「今の僕には里の結界の維持という仕事がありますが…貴方に黄泉の門をくぐらせるぐらい、容易い事です」
気難しく底が知れない人物であるムジカからのまさかの申し出に、アメティは大きな瞳をさらに大きくして驚いた。常に族長として損得を優先し、非情に徹しているムジカから出た言葉とは思えない。
そんな考えが表に出ていたのか、ムジカは相も変わらずの底知れない笑みを浮かべる。
「魂が視える人間なんて初めて見ましたからね…死霊達への対抗策と成り得る彼を失うのは、有益ではないと思ったまでです」
「ふ…ふん!分かっておるわ、そのくらい!貴様が親切心を起こすなど、考えただけで怖気が立つ!」
気恥ずかしさを紛らわせようと必要以上に声を張るアメティに苦笑するのもつかの間、ムジカは真剣な表情で黄泉の門を見詰めた。視線は向けず、言葉だけでアメティに語りかける。
「この開きかけた門を塞いでいる死霊の魂…その数が多すぎるが故に、生身では通る事は難しくなっています。緊急時である今、大掛かりな儀式を開いている暇はありません。なので、一番簡単かつ、一番危険な方法しか実行できませんが…いいですね?」
「どんな方法でも構わん。……あやつの為になるのなら、どんな危険があっても」
静かに呟いて黄泉の門を見つめるアメティの瞳には、真っ直ぐで真摯な輝きがあった。
その根底にあるのは、ただ大切な人を救いたいという純粋な願い。ムジカが気が遠くなるほどの年月を生きるうちに、いつの間にかどこかへ忘れて来てしまった感情だった。
「…分かりました。では、彼の元に貴方の心を送ります。決して、死霊の憎念に屈さぬようにして下さい」
ムジカの声に、アメティは静かな笑みを浮かべたままでしっかりと頷いた。
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≪どうしたの…?泣いているの?ツヴァイ≫
脳裏に蘇るのは、アインとのかつての記憶。
軍に徴集された事でアメティと逢えなくなり、環境の厳しさと心細さで一人泣いていた夜に、黙って寄り添ってくれた彼女の温かさだった。
≪きっと、あなたのお父さんやお母さんも、悩んでいるのよ。きっと奥底では、あなたの事を愛してくれているわ≫
魂が視える奇妙な眼を持つが為に、両親からも腫れ物に触れるような扱いを受けていた。どれだけ取り繕おうとも態度と魂の色から気味悪がられているのが分かり、その度に深く傷付いた。
唯一自分を気味悪がらずにいてくれたアメティとは、軍に入ってから逢えなくなってしまった。
≪大丈夫、大丈夫よ、ツヴァイ…私が、ずっと一緒にいてあげる。あなたの傍から、居なくなったりなんかしないから…≫
恐らくアインが居なければ、あの頃を耐え切る事は叶わなかっただろう。本当の弟のように自分を寵愛してくれた彼女の存在は予想以上に大きかった。
彼女に一度も勝てず、超える事が出来ないままに別離したことも一因であろうが、決してそれが全てではなかった。
師でもあり、姉でもあり、上官でもある。
一言で言い表せない関係性にある彼女が、今は最大の障壁となって立ちはだかっていた。
ゆらりとした動作で、アインは腰に提げていた刀をゆっくりと引き抜き、鞘を放って捨てた。
先程までの憎悪に満ちた表情は無く、ただ冷静な戦士の顔をしている。静かに相手を見据える切れ長の瞳を揺らがせることも出来ず、幾度土を付けられたか知れない。
アインが刀を抜くのを待って、ツヴァイもまた刃を抜き放った。鞘は捨てず、そのままに。
それを見てアインが目を細めたが、これまでに受けた傷の痛みが邪魔をしてツヴァイの目には入らなかった。
「……政府軍直属特殊部隊、コードネーム アイン。真名、ユウリ・セレッソ」
刀の切っ先をこちらに向けて、アインが静かな声で宣告する。それは彼女が育った国に伝わる、決闘時の礼節だった。
けれど、本名を用いての決闘の挨拶は今までした事が無かった。初めて耳にする彼女の本名に、しかしツヴァイは戸惑いも驚きもせずに刃の切っ先を彼女に向ける。
「政府軍直属特殊部隊、コードネーム ツヴァイ。真名、ヨハネス・イングラム」
無理に魔術を使い続けていた反動で、出血は未だ収まっていない。けれど今は、そんな事に気を配ってはいられなかった。
ツヴァイが名乗り終えると、両者はどちらともなく武器を構える。ゆっくりとした動作で、しかし決して相手から目を反らさずに、じっと腰を据えた。
「「――参るっ!」」
口を開いたのは、ほぼ同時。お互いの声を皮切りに、ツヴァイとアインは刃を切り結んだ。
真正面からぶつかり合った刃は、しかしつば競り合いにはならずに離れていく。アインとすれ違う形になったツヴァイは、刃を逆手に持ち替えて背を向けたまま刺突した。
「く…っ!」
アインが寸でのところで刺突を受け流し、胴を薙ぐ一閃を放ってくる。
ツヴァイは逆手に持った刃で振り向きざまに一閃を受け、やや上向へ反らした。そのまま前につんのめる形になったアインの首元目がけて刃を突き出しかけて――中途で寸止めし後方へと後ずさる。ツヴァイが先程まで居た場所を、アインの刀が通り過ぎて行った。
「…いいわね、ツヴァイ。今までで一番…うまくできてる」
ふと、アインが優しげに微笑む。ツヴァイは目を細めながらも、険しい表情を緩めはしなかった。
刃を順手に持ち替えて、再び構え直す。アインも真剣な表情を取り戻すと、刀を握り直して構えを取った。
アインとの戦いは、常に攻防一体で行わなければならない。下手に攻撃を食らえば、その時点で勝負は決してしまう。油断や考え事などしている暇がなかった。
「――はっ!」
今度はツヴァイが先に斬り込んだ。アインの胴めがけての一閃は交わされてしまうが、ツヴァイは気落ちする暇なく刃を後方へ突き出す。すぐさま飛んできたアインの一閃が、刃にぶつかって逸れていった。
ツヴァイはそのまま間髪入れず、振り返ることなく刃を一閃した。無理な体勢でも少しも乱れる事のない剣筋に驚いたのか、反応の遅れたアインは胴を切り裂かれてしまう。
「ああぁっ!」
ツヴァイはこの隙にもう一撃加えようと試みるが、正面から繰り出されたアインの刀を目にして思わず舌を打った。顔を反らして回避するが、かわしきれなかった刀が左頬を切りつけていく。
またも血が流れ、身体から流れ続ける血と共にツヴァイの体力を奪っていった。
アインとツヴァイは一旦距離を取り、お互いに息を整える。
どちらも、本来ならば戦える身体ではないのだ。無理を推しての決闘で、消耗は更に激しくなっている。戦いが長引けば、決着が着かないままの共倒れは必至だった。
アインもそれは分かっているのか、息が整うと同時に刀を構えた。ようやく息が整ったツヴァイもまた、刃を構え直す。ツヴァイの準備が整うのを待って、アインは静かに語りかけてきた。
「…ツヴァイ。この勝負、私は最初から最後まで全力でやったわ。手心なんて入ってない。…わかるわね?」
「……そんなもの、お前の刀を受けていれば嫌でもわかる」
ツヴァイの答えに満足したように、アインは笑った。どこまでも優しいその笑顔に、ツヴァイも無意識のうちに目を細める。けれどその瞳の色は、とても悲しそうに揺れていた。
「…次で、終わりにするわよ」
「……ああ」
まるでツヴァイとの真剣勝負の終わりを惜しむように、アインが表情を歪めて呟いた。それに答えながら、ツヴァイもまた喉の奥がキンと痛むのを感じる。
それでも、一度始めた決闘を止める訳にはいかなかった。
「「――はぁぁっ!!」」
ツヴァイとアインが駆け出したのは、ほぼ同時だった。お互いの距離が詰まっていく中で同時に繰り出した一閃は、交わり、ぶつかって――やがて、片方が相手を押しのけるように弾き飛ばした。そのまま、一閃は相手の左胸へと向かって行く。
やがて、肉を切り裂く音がした。
「ぁ……は………」
どさり、と音を立ててアインが倒れる。ツヴァイは静かに刃を鞘に収めると、倒れたアインへと歩み寄り、その傍にしゃがみ込んだ。
助け起こす事をしないのは、既に彼女が手遅れだと察しているから。そしてそれ以上に、敗者に手を貸すのは武人として最大の侮辱だと知っているためだった。
アインは左胸から血を流しながら、それでもツヴァイの顔を見て、満足気に笑う。
「……おめでとう」
小さく、途切れ途切れであったその言葉は、けれどツヴァイの耳にしっかりと届いた。アインは血に濡れた顔を優しげな表情で満たしながら、そっとツヴァイの頬を撫でる。その手の冷たさに、ツヴァイの喉がまた痛みを訴えた。
「アイン……お前は」
これでよかったのか、と問いかけて、すぐに止める。この終わり方が彼女の本意ではないことは、今にも泣きそうなアインの目を見れば痛いほどに分かった。
「俺は……お前を、」
思わず口から出そうになった自責の言葉を、アインはただ黙って首を振ることで制した。あなたは何も悪くない、と言外に訴えるその仕草に、ツヴァイはぐっと唇を噛み締める。
「…満足よ、私は。最期に…あなたに斬ってもらえて」
静かな声で呟きながらも、アインは苦しげに咳込んだ。薄い唇から血を吐きながら、それでも懸命にツヴァイに向けて言葉を紡ごうとする。もうやめろと叫びたくなったが、そうしたところで無駄な事だと、ツヴァイは知ってしまっていた。
彼女は既に、死んだ身なのだ。
いよいよ息も絶え絶えになりながら、それでもアインは必死にツヴァイへと両手を伸ばした。ツヴァイの顔を両手で優しく覆いながら、くしゃりと顔を歪めて微笑む。
「わたしに、ついてきてくれて、ありがとう」
震える声で紡がれたその言葉が最期の声となり、アインの身体から力が抜けていった。
それと同時に顔から離れて行ったアインの手がツヴァイの目元をかすめ、小さな雫が中空へと消えていく。
「……ぁ、」
彼女の名を呟きかけて、やめた。もう、アインの魂は此処には居ない。
ツヴァイには分かっていた。アインは、既に死霊の支配から脱していたのだ。ツヴァイがダメージを与えた影響で死霊がアインの身体から離れて行った事も、決闘時の彼女が正気であったことも、全て分かっていた。
けれど、彼女の身体に残された、ちいさなちいさな消えかけた青い灯火を見て――彼女がもう、助からない身である事もまた、分かってしまったのだ。
「…それでも…最期まで、お前は笑うんだな」
事切れたアインを前にして、ツヴァイは暫しの間動かずにいた。蹂躙された彼女の魂が、せめて少しでも満たされるようにと願いながら。