小さい頃から、他人の魂の色が視えた。
親切にも自分に声をかけてきた商人は赤、自分を兵として徴集した兵士も赤、同情の声をかけて来た女性も赤、自分に殺された者達も赤――同情や打算、煩悩などのよこしまな負の感情は全て赤い色となってツヴァイの目に視えた。
勿論、常に赤い色の魂をしている者は居ない。魂が青くなることもあれば、赤くなることもある。完全な悪人も完全な善人も存在はしないのだ。
けれど、唯一あの花畑で自分を待っていた白狼の少女だけは、いつ視ても澄んだ青い魂をしていた。
それを今、自分は殺害しようとしている。
ツヴァイが再度あの花畑を訪れたのは、既に月が沈み、もうすぐ太陽が顔を出すかという時間だった。
先程と変わらず同じ場所に立っているアメティの姿に、ツヴァイは僅かに眉を潜める。アメティはツヴァイの姿を見ると、すぐさま走り寄ってきた。白い尾がゆらゆらと揺れている。
「ツヴァイではないか!どうした?なにか言い忘れた事でもあったのか?それとも気が変わって、儂との逢瀬を一晩中楽しみに来たというのか?どちらでも儂は大歓迎じゃぞ?」
「……リュコス」
忙しなくまくしたてるアメティを、諌めるような静かな口調でツヴァイは呼んだ。悲哀も恋情も感じさせない、無感情で淡泊な掠れた声だ。
アメティは何も感じてはいないのか、何か感じてはいるが気付かぬふりをしているのか、やはり変わらぬ様子で答える。
「だーかーらっ!アメティと呼ばぬか!…で?なんじゃ、ツヴァイ?」
「……俺は」
静かに、腰に収めてある鞘から刃を抜く。薄明りの中で妖しく煌めく刀身に気付いて、アメティが眉を潜めて首を傾げた。薄暗いため光を認識できていても、刃の存在までは認識できていないのだろう。
神の眷属とされる白狼一族の者であっても、心臓を一突きにされれば生きてはいられない。ツヴァイは静かに、物音ひとつ立てずに刃を抜き放った。
「…ツヴァイ?一体全体、どうしたのじゃ。何をしておる?」
「…………、」
アメティの言葉に、ツヴァイは何も答えない。ただ小さく息を吐くのみだった。
やがて無防備なアメティの左胸めがけて刃を振るおうとした――が、その刃は届かずに終わった。
「ぅ…ぁ……?」
「何だと…?」
アメティの左胸を、一本のナイフが深々と貫いている。アメティの背後から突き出されたのか、じんわりと赤く沁みてゆく左胸を貫くナイフの切っ先を、ツヴァイは僅かに瞠目して眺めていた。
アメティの胸に灯っていた青い灯火が、消えている。
ふるり、とアメティの身体が震えた。それとほぼ同時に、ナイフが抜き去られる。
アメティの細い身体はぐらりと揺れ、前のめりに崩れ落ちる。ほとんど無意識にその身体を抱き留めながら、ツヴァイは彼女の背後へと目を向けた。
「お前は……」
背後からアメティの心臓を一突きにした人物は、黒尽くめの衣装を身にまとって静かに立っていた。注視せねば夜闇に溶け込んでいきそうなその衣装は、暗殺者が夜に活動する際に身に着けるものだ。
「何の真似だ、俺の仕事を邪魔するつもりか?」
答えなど返っては来ないと分かっていながらも、ツヴァイは暗殺者に問うた。アメティの血に濡れたナイフが視界に映り、ツヴァイの眉がぴくりと跳ね上がる。
目の前に立つ暗殺者の魂は、血のように赤く染まっている。ツヴァイは素早く立ち上がり、抜き身のままになっていた刃を一閃した。
刃の切っ先が暗殺者の胸部を僅かに掠めたかと思ったその一瞬で、暗殺者はバックステップで一気にツヴァイから間合いを離した。
赤い魂の黒尽くめはバックステップの勢いをそのままに、花畑の向こうの崖へと消えてゆく。
「……逃げたか」
戦闘は長引かせず、一撃で対象を仕留めて離脱するのが暗殺者のやり方だ。仕事で幾度か暗殺者と遭遇しているツヴァイにもそれくらいは分かっていた。にも関わらず斬りかかってしまったのは何故か。
「動揺、していたということか」
ぎり、と無意識に奥歯を噛み締める。
刃を鞘に仕舞い、腕の中で冷たくなっているアメティを見やる。しかしいくら眺めていても、彼女の胸にはもう青い灯火は視えなかった。
ツヴァイは他勢力に巫女の殺害を許したとして任務失敗の烙印を押され、ここぞとばかりに房へと押し込まれた。
日頃の鬱憤晴らしか、ツヴァイへの恨みでもあるのか、何人もの人間がやってきては制裁と称してツヴァイを痛めつけていった。
任務に失敗した際にはこうして制裁を受けるのが部隊での暗黙の了解になっている。何度か経験している為、ツヴァイはさっさと終われと言わんばかりの冷めた態度を崩さなかった。
痛めつけられても呻き声ひとつ漏らさないツヴァイに飽いたのか、やがて房には誰も足を踏み入れなくなった。
天井付近に取り付けられた窓をちらりと見ると、満月が浮かんでいる。明け方に暗殺者と遭遇してから、優に10時間以上は経過しているらしい。あと数日もすれば、ここから出られるだろうか。
ツヴァイが身体に走る鈍い痛みを無視して目を伏せた時、ふと房に近付いてくる足音が聞こえて来た。やがて、重い扉が開かれる。
「…お前は」
入ってきたのは、いつもツヴァイに国からの指令を伝える通信兵だった。彼女は周囲を警戒してか、そっと人差し指を自分の唇に添える。声を出すな、という無言の訴えだった。
通信兵は懐から1枚の紙を取り出すと、ツヴァイの眼前でそれをゆっくりと開いて見せる。そこに書かれている内容を読んで、ツヴァイは彼女がここへ来た理由を悟った。
その紙には畏まった文章が長々と記されているが、要約すると「暗殺者を尋問し、派遣した勢力の正体を突き止める必要がある。任務失敗の責任を負うため、巫女を殺害した暗殺者を捕えよ」という指令がツヴァイに対して下っているらしい。
しかし、暗殺者が何処に居るのかも分からない。恐らくは長期にわたる仕事になるだろう。それでも大丈夫なのかと、彼女はツヴァイに問うているのだ。
「……、…」
ツヴァイは躊躇う様子もなく、彼女の目を見て頷いた。通信兵が静かに頷き、紙を畳んで立ち去ってゆく。
先程の任務は、後日正式に言い渡される事になるのだろう。閉ざされる房の扉を目の端に捕えながら、ツヴァイは再度目を伏せた。
瞼の裏には、アメティの笑顔が焼き付いて離れなかった。
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予想通りというべきか、数日後にツヴァイに暗殺者の追跡と確保が命じられた。
言外に「これを成功させれば任務失敗はチャラにしてやろう」という主張が見え隠れしている上に、どこに居るのかも分からない暗殺者の確保という長期戦を予想させる内容も相俟って、部隊の中では何人もの人間が赤い魂を灯しながらツヴァイに同情の声を寄せた。
無論、ツヴァイはその全てを無視している。
長期にわたる仕事になるため、ツヴァイは本部にある宿舎の自室で出立の準備をしていた。
自室と言っても浴場とトイレを除くとベッドと机しか置けないほどの広さであるため、持ち物の少ないツヴァイは準備にさほど時間をかける事は無かった。
数分ほどで準備を終えたツヴァイが自室を出て行こうとしたが、ふと背後に何者かの気配を感じて立ち止まる。
先程までは何の気配もしなかった自室に、いきなり生じた謎の気配。人間のものかどうかも怪しいそれは、何をするでもなくただ黙ってツヴァイの背後に存在していた。
「…誰だ」
ツヴァイは素早く刃を抜き放つと、振り向きざまに切っ先を背後に向ける。背後に存在している“それ”の姿を見て、ツヴァイは目を瞠った。
“それ”は明かりが灯されていない部屋の中で、煌々と青白く光を放っていた。足は床から離れて宙に浮き、腰ほどまで伸びた長い髪はふわふわと揺れている。その合間から覗く尻尾は、嬉しそうにパタパタと揺れていた。
人間であれば耳がある箇所から生えた、毛皮に包まれた狼の耳。大きな瞳が瞠目するツヴァイの姿を映し出している。ふふんとどこか得意げな笑い声が聞こえた。
「どうじゃ、驚いたかのう?神の眷属たる白狼一族の力、侮ってはいかんという事じゃ」
外見こそ10代の少女にしか見えないというのに、口を開けば時代錯誤な古風な口調が飛び出してくる。人を食ったような態度ばかりをとるくせに、ツヴァイの前では嬉し涙を零したり頬を赤らめたりと外見年齢相応の態度をとる、白狼の少女。
「儂は死なぬ。汝と祝言を挙げるまでは、絶対にな。そうじゃろう?……ツヴァイよ」
アメティスタ・リュコス――凶刃に倒れたはずの白狼は、青白い魂の姿となってツヴァイに微笑んでみせた。