ツヴァイとアメティが宿屋に入ったのは、通信兵から「暗殺者の居所を特定した」との知らせを受けてから数時間後――太陽が沈み、青白い月光に辺りが包まれる頃になっての事だった。
影で連れ込み宿とも称される安い宿の一室で、ツヴァイは何をするでもなく窓の外を眺める。月と星の位置を観察すれば、現在の時刻は深夜1時を回っている事は容易に察しがついた。
「…眠らぬのか?ツヴァイよ」
すぐ後ろでふわふわと宙を漂っているアメティが、ぽつりと問いかけてくる。ベッドと申し訳程度の収納家具しか置かれていない部屋はお世辞にも広いとは言えず、彼女はツヴァイのすぐ傍に在った。
「……昔を思い出していた」
窓の外に視線を向けたまま、小さく答える。眼下にある暗い路地には、青と赤の魂がぽつりぽつりと行き交っているのが視えた。
「むかし…?なんじゃ、儂と出逢う前の事かの?」
「いや、お前と逢わなくなった後…俺が部隊に入ったばかりの頃だ」
彼にしては珍しく、するりするりと言葉が口をついて出る。普段ならば自分の事を誰かに語るなぞ絶対にしないツヴァイだが、どうしてかアメティに対してであれば口にしても良いだろうという気持ちになっていた。
ただの気まぐれか、或いは夜空にひっそりと在る朧月の蒼光がそうさせるのか。
「俺は2番目に部隊に加入し、先に加入していた“1番目”……アインに様々な手ほどきを受けた。立ち居振る舞いから戦闘術、細かな知識まで…俺は全てアインに教わった」
脳裏にアインの顔が浮かぶ。徴集された順番に従って“1番目”という名を与えられた彼女は、ツヴァイを特に目にかけていた。彼女からは母とも姉とも、恋人ともつかぬ妙な温かさをよく感じていたものだ。
「俺は一度もアインに勝てた事は無い。兵士としても、人間としてもな」
「ほう?汝がそこまで言い切るとはのう。余程の実力者なのじゃな?そのアインとやらは」
掠れたツヴァイの語り口に、アメティが横から野次を飛ばす。しかし面白がるような口調とは裏腹に、その声音はどこか穏やかだ。
「で、そのアインとやら…今は何処におるのじゃ?儂もぜひ会ってみたいのう」
次いで出たアメティの言葉に対して、ツヴァイはふるふると首を振る。きょとん、と目を丸くしてこちらを見つめてくるアメティに、ツヴァイは事もなげに告げた。
「……アインは勝ち逃げしたまま、遥か遠方の国に行った。会えん事もないが、非常に困難だ。……諦めろ」
「むう、そうなのか…残念じゃのう。儂の知らぬ汝の話を、根掘り葉掘り聞き出したかったのじゃが…」
ぼんやりと語っていたツヴァイは、ふっと冷水を浴びせられたような錯覚を覚えた。アインの事を思い出すと、決まって心に氷柱が刺さったような痛みを覚える。だからこそ、何の感傷も未練も抱かぬよう、今まで感受を封じて来たというのに。
個人的な感傷や心痛を抱いていてはきりがない。それで仕事をこなせるほど、ツヴァイが居る場所は甘いところではなかった。
「……昔話はここまでだ。明日は早い。俺はもう寝るぞ」
未練がましく語尾を伸ばすアメティには構わず、ツヴァイはするりとベッドに潜り込んだ。先程までぼんやりと掠れていた口調は彼原来の冷たく無感情なものへと戻っている。
「ツヴァイ…」
背後でアメティが何かを呟いたのか、空気が微かに震える。力ないそれは音にすらならず、僅かな息にも等しかった。彼女に背を向けているツヴァイには、当然ながらその言葉の全てを理解することなど出来はしない。
しかし聞こえていたとしても、今のツヴァイがまともな返答を返せるかどうかは分からなかった。
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それから数時間が経ち、朝日が昇り始める前になってツヴァイは起き出した。すぐに宿を出ると、通信兵から送られてきた情報に従って暗殺者の居る場所へと進んでいく。
やがて街から外れ、立ち止まったのは朝靄に包まれる森の中だった。
「…この辺りか」
辺りを見回すと、手近な場所にあった大木の一番上まで昇り詰める。バランスをとって枝葉の上に立つと、眼下に広がる森をじっと睨んだ。
青白い朝靄に包まれた森の奥まった場所。人目を嫌うようにして木々に隠れた所に、一軒の屋敷がそびえている。有刺鉄線と柵で囲われたその屋敷こそが、アメティを刺した暗殺者の根城に他ならなかった。
皮肉なことに、幼い頃は疎んでいたこの体質は逃げる相手や隠れる相手を確保する時には非常に役に立っていた。
意識を集中させて神経を研ぎ澄ませると、普段は視えない建物の中に居る人間の魂までもが視えてくる。それによってツヴァイは、屋敷に何人の人間が潜んでいるのかを明確に把握することができた。
「あんれまあ、かなり厳重そうじゃのう……どうするのじゃ?」
隣を漂うアメティが顔を覗き込んでくる。ツヴァイは返答はせずに、足元の葉を数枚千切り取った。右手に掴んだそれを、ぱらぱらと落とす。
数枚の葉はまっすぐ落ちず、ツヴァイが居る方向へと僅かに逸れた軌道を描きながら地面へと落下していった。
「ツーヴァーイー?なんなのじゃ、妙ちきりんな真似しおって。儂はあんな柵がある屋敷からどうやって暗殺者を確保するのかと聞いたんじゃ!これ!答えんか!」
「少し黙っていろ」
ぴしゃりと言いつけて、ツヴァイは素早く地面に降り立った。アメティがぶすくれながら後をついてくる気配を感じ取りながら、ツヴァイは森の奥へと目を向ける。
そこには、どうやら番いであるらしいシカが2匹、呑気に草を食んでいた。
彼は走っていた。汗を滲ませ、緊張で息を乱しながら、必死に走っていた。
根城にしている屋敷のあちこちからは、この世のものとは思えぬ断末魔が響いている。それに重なって聞こえる、獣の呼吸音。
――野犬だ。
この屋敷から離れた場所に生息している、野犬の吠え声。それが屋敷内に響いていた。
おかしい。この屋敷は野犬の生息地から十分に離れているし、なにより野生動物の侵入を防ぐための有刺鉄線と柵を屋敷の周囲に張り巡らせてある。あれは野犬の力では噛み千切る事は出来ない筈だ。それなのに何故。
屋敷内に仲間の断末魔が次々と木霊する。野犬の群れに襲われ、生きたまま内臓を引きずり出され捕食されているのだろう。次々と獲物を狩りながら、それでも空腹を抑えられない野犬の吼え声に、彼は無意識のうちに恐怖した。
(駄目だ、冷静になれ!野犬どもは臭いで獲物を探し出す…風下に逃げるんだ!)
野犬が壊したらしく、割れて窓枠だけが残されている屋敷の窓から外へと躍り出る。
仲間の血と食いちぎられた腕や足が散乱する庭を、風下へ向かって走り抜けた。時折血だまりに足をとられ、ずるりとした嫌な感触がする。
それでも大勢を立て直して走り続け、屋敷からかなり離れた場所でようやく足を止める。
「ここまでくれば、大丈夫か……」
安堵のため息を漏らしながら、屋敷がある方向を振り返る。
それにしても、今回の野犬の襲来は不可解な点が多すぎる。彼はそこに何か人為的なものが含まれているとしか思えなかった。
「それにしても、誰だ…恨みを買う事はあるが、一体誰が……」
彼は人に恨まれても仕方のない仕事をしている、所謂日陰者だ。彼に対して恨みを持った人間などごまんといるし、動機も星の数ほど思いつく。
襲撃犯の目的も正体も分からず、彼が考えあぐねていたその時だった。
「ぐああぁっ!?」
いきなり、両の足に激痛が走った。見ると、彼の足を地面に縫いとめるようにして、2本のナイフが貫通している。いつの間に攻撃を受けたのか。彼は痛みをこらえながら、慌てて周囲を見渡そうとして――動きを止めた。
「“幼い頃に野犬に襲われたトラウマから野犬を嫌い、過剰なまでの反応を示す”…情報通りだな。野犬の襲撃程度で動揺し、気配を消す事も冷静になる事も忘れて逃げてくるとは」
首筋にひたりと冷たい感触が触れる。木漏れ日に照らされる片刃のそれは、やや細身の刃だった。
「アメティスタ・リュコスを襲った時、対象の死亡確認もせずに逃げたのは…あいつが白狼一族だからか?何にせよ、お前は暗殺者としては不完全だな」
「貴様は…っ!」
何者かが背後に立ち、彼の首筋に刃を充てている。その人物は気配ひとつ無く、気が付いた時には既にそこに居た。
まずい。彼は嫌な汗が浮かぶのを感じた。野犬の襲撃に動揺しすぎて、数々の失態を犯してしまった。待ち伏せされている可能性に、気付いていなかったのだ。
しかし、と彼は地面に視線をやる。ナイフに貫かれた自分の足の後ろに、彼の首に刃を充てる人物の足が見えた。まだ、手はある。
「……それは、貴様も同じだと思うぞ」
「何…?」
挑発のように告げた言葉に、謎の人物が訝しる気配がする。そして、その人物が僅かに足を後方へとずらした。
「――ッ!?」
その瞬間、ガシャン!と金属音がした。謎の人物の足を鉄製のブービートラップが捉え、獣の牙を思わせる鋭い刃を深く食い込ませている。
この場所に偶然仕掛けておいたブービートラップが作動したのだ。首に充てられている刃からわずかに力が抜けるのを悟って、彼は素早く振り返った。足は縫いとめられているため、身体を捻って上半身のみで背後に立つ人物に向く。
そして、振り返ると同時に謎の人物の左胸めがけてナイフを突き立てた。
「く……っ!」
突き立てたナイフは左胸を狙ったはずだったが、どうやら僅かに避けられたらしく致命傷には至っていないようだった。しかしナイフには野草から採取した毒が塗ってある。放っておいてもこれなら死ぬだろうと見当をつけて、彼が背後に立つ人物の顔を拝もうとした時だった。
「怒りで、油断していたか…俺らしくもない」
ぽつりと一つ、呟きが聞こえた。その意味を問う間もなく、ずぶりと肉が貫かれる嫌な音が身体の内から響く。
「な…っ!?」
左胸に感じる、じんわりとした熱さと激しい痛み。しかし彼の視界には、首に充てられていた刃が映ったままだった。
恐る恐る確認すると、彼の左胸にはまた別のナイフが突き立てられていた。ぐちゃりという音と共に、それはより一層奥深くまで入り込んでくる。
「……どうやら俺は、リュコスを刺された事が、思いの外気に入らなかったらしい」
謎の人物は尚も深くナイフを突き立ててくる。ぎちり、と嫌な音が体中に響き、彼はたまらず断末魔の悲鳴をあげた。言葉にならぬ絶叫が森林に木霊する。
「俺も、所詮は人間と言う事か」
謎の人物の、およそ人を刺しているとは思えないような声が聞こえてくる。一人の人間の命を左右しているというのに、その声は世間話でもしているような、他人事めいた響きがあった。
「…だが、これは任務だ。お前を殺しはしない」
もうすぐ心臓に届いてしまうと言う所で、ナイフから手が外される。深々と突き立てられた箇所はナイフで堰き止められているため血は流れてこないが、ナイフを抜けば出血多量で死んでしまうであろうことは容易に想像がついた。
「……ツヴァイだ。対象を確保した」
後ろから、謎の人物がどこかへ連絡を取っている声が聞こえる。足を縫い止められ、倒れ込むこともできない彼は、悄然としてそれを聞いていた。
「…ツヴァイ!ツヴァイッ!聞こえておるか、ツヴァイッ!!」
昼下がりの森の中で、アメティは必死に叫んでいた。目の前には、大木の根元で座り込んだツヴァイが居る。彼の身体は先程からぴくりとも動かず、呼吸音も薄くなってきていた。顔色は徐々に白くなり、じっとりと汗が滲んでいる。
「ツヴァイ…ッ!!」
どれだけ呼びかけても、叫んでも、ツヴァイはぴくりとも動かない。常ならば「煩い」「黙れ」とのたまう口も、今は引き結ばれたままだ。
ツヴァイをここまで追い詰めている要因は、彼の胸に突き立てられたナイフにあった。
ツヴァイは暗殺者の確保のために2匹のシカを殺し、血濡れの生肉を屋敷に放って野犬をそこまでおびき寄せた。張り巡らせていた有刺鉄線を切断し、柵を少しだけ脆くして、野犬が屋敷内にも侵入できるように手を打ったのだ。
野犬にトラウマを持っているという暗殺者はツヴァイの読み通り、野犬の嗅覚から逃れるために風下へと逃亡した。待ち伏せていたツヴァイが、それを確保したのは良かったのだが。
「ちいっ!この、ちんけな毒めがっ!もう効いておるのか!?」
“怒り”で油断していたらしいツヴァイは、暗殺者から思わぬ反撃を受けた。毒が塗られたナイフを、心臓付近に突き立てられたのだ。
暗殺者の確保は無事に終了したが、通信兵が手配した回収班が到着するまではまだ時間がかかる。アメティには毒の知識は無いが、このままではツヴァイが回収班の到着まで保たない事は火を見るよりも明らかだった。
どうすればいい。どうすれば、この男を助けられるだろう。
ずっと焦がれてきた人が、この旅の直前になってようやく再会できた想い人が、目の前で苦しんでいる現実に、アメティは青白く光る身体の震えを止めることができなかった。
「こんな…っ、こんな毒に、汝を奪わせて、たまるものかっ!」
アメティはツヴァイの身体の正面へ座り込む形で浮遊すると、触れる事の出来ない彼の身体に両手をかざす。
顔色を失い、白くなりつつあるツヴァイの肌に、汗が滲んでいる。呻くこともできないらしい彼の姿を見て、心をずたずたに切り刻まれるような痛みが走った。
再会してからというもの、昔のように“アメティ”と呼ぼうとせず、アメティが隣でまくしたてても口から出る言葉は「煩い」「喧しい」「黙れ」などの文句や命令ばかりだった。
その口調は無感情で冷たく、どこか機械的な雰囲気さえ感じさせる事もしばしばある。
けれどその目はアメティを見る時だけはどこか優しげに細められていて、アメティが心から望んだ時には必ず応えてくれていた。
昔とは纏う雰囲気が変わってしまっていたが、その優しい本質は変わってはいない。
ただ、優しさを向ける対象がひどく少ないだけなのだ。
「失うものか…!奪わせるものか!汝は、汝は儂の……!」
かざした両手から溢れる碧色の光がツヴァイの身体を包み込み、彼の身体の隅々まで染み渡っていく。
それは白狼一族に伝わる治癒魔法だった。本来ならばツヴァイの毒を消し去り傷口を修復することもできるのだが、むき出しの魂となっている今のアメティの力は弱体化している。
消耗が激しい今では、ツヴァイの身体を蝕む毒を消し去るだけで精一杯だった。
それでも、彼の為にできる事があるのなら、全力でやりたかった。
碧の光を受けて、蒼白だったツヴァイの顔色が徐々に戻っていく。それを見て、アメティは心から安堵した。
「ああ…ツヴァイ……」
同時に、アメティの視界が霞んでいく。思考に靄がかかり、身体が鉛のように重くなった。
謎の倦怠感と異物感が、きりきりとした痛みと共に押し寄せる。意識が霧散して散り散りになってしまいそうだった。
それでも、とアメティは目の前のツヴァイを見る。顔色も戻り、呼吸も比較的落ち着いている。
何より、彼の命を蝕もうとしていた毒を、消し去ることができた。
「良かっ、た……」
ああ、良かった。ほんとうに、良かった。
自身の意識すらも見失ってしまいそうなほどの疲労感と苦痛に苛まれながらも、アメティはぼんやりとほほ笑む。ツヴァイを救う事が出来た。今の彼女は、その事実を認識するだけで精いっぱいだった。
だからこそ、アメティは気付かなかった。
精神体である自分の足元に、一つの魔法陣が現れている事にも。負担に耐え切れずに目を閉じた自分が、怪しげな光に包まれている事にも。
そして、意識を手放したアメティは魔法陣から溢れる紫色の光に包まれ、その場から完全に消え失せてしまう。
後に残されたのは、意識のないツヴァイだけであった。