苦蜜


 遠い昔、人間たちによって一方的に追いやられ、白狼一族によって死者の国へと閉じ込められた死者の魂たち。彼らが眠る死者の国への扉は、この世界の中心にある。

 

 そして今、普段は白狼一族によって堅牢に守られているその扉に、ぴしりと小さく亀裂が入った。

 

 

 

 目が覚めた時、そこにアメティの姿は無かった。

 

 未だ覚醒しきらぬ重い身体を手で押し上げるようにして、ツヴァイは寝台から身を起こす。見覚えのある部屋の光景は、本部の医務室のものだ。

 

 あの時暗殺者に不覚を取って気を失った後に運ばれたらしく、素肌の上に包帯が巻かれている。

 

 集中させて壁を透視しながら周囲を視るが、視えてくるのは赤や青の灯火ばかり。青い魂の具現であるアメティの姿は、どこにもない。

 

 そればかりか、地響きのような小さな揺れが断続的に起こっていた。外からはごうごうと吹き付ける嵐のような風の音が響いている。

 

「リュコス…」

 

 冷たく、しかし心なしか早い口調で彼女の名が零れる。寝台から降りようとすると刺された傷口に鈍い痛みが走るが、ツヴァイは構わずに寝台から降りた。

 

 サイドテーブルに置かれていた自分の軍服を素早く身に纏い、装備を整える。未だ傷は塞がり切っていない身体を無視して、ツヴァイは医務室を出て行った。

 

「ツヴァイさん…!?」

 

 いつも通りの装備でホールに現れたツヴァイの姿を見るなり、業務に徹していた通信兵が驚きの声を上げた。ツヴァイ負傷の報せは既に周知のものとなっていたのか、周りからもどよめきが起こる。

 

 その全てに見向きもせず、ツヴァイは通信兵の元へと歩み寄った。

 

「何かあったのか。外の様子がおかしいようだが」

「あ…はい!死者の国への扉を中心に、各地で地割れや異常気象が多発中です。本部付近でも地割れが発生しており、部隊の大半がその対応に向かっています。それと…」

 

 何かを言いかけて、通信兵は周囲を素早く見渡した後にツヴァイに顔を寄せてくる。そして、周囲に気取られないほどの小さな声で告げた。

 

「あなたに保存を頼まれていた、アメティスタ・リュコスの遺体…あれが、何者かによって持ち去られていました」

 

 途端、ツヴァイは眉を顰めてため息を吐いた。通信兵のデスクに置かれていた自分の通信機をひったくるように取ると、手早く装着する。

 

「震源地の死者の国への扉には俺が向かう。恐らくアメティスタ・リュコスの身体もそこにあるだろう」

「し、しかし、あなたはまだ傷が…」

「あんなかすり傷程度で人員を遊ばせておける状況では無いだろう。ナビは任せるぞ」

 

 ツヴァイの跳ね除けるような口調に、らしくもなく慌てていた通信兵はやがてふうっとため息を吐いた。肩をすくめて苦笑しながら、どこか優しさを含んだ声で答える。

 

「…分かりました。あなたは聞かん坊ですからね。ナビは引き受けます。……ただし、きちんと無事に帰還してくださいね。約束のチョコプリンだって、まだなんですから」

 

「……そうだな」

 

 どこか他人事のような口調で応じるツヴァイは、既に通信兵に背を向けて歩き出している。

 

 その目の奥底に息を潜める赤黒い怒りに気が付いたからこそ、通信兵は彼を止めることなど不可能なのだと知っていた。

 

「死者の国への扉……また、あそこへ行く事になるとはな」

 

 震源地への最短ルートを駆け抜けながら、ツヴァイは誰にも気取られることのない呟きを漏らした。異常気象によって冷たく吹き荒れる暴風が、皮膚の上にぶつかっては砕け散っていく。

 

 死者の国への扉――通称“黄泉の門”。白狼一族の里に隣接し、白狼によって守られている其処は、ツヴァイにとって拭う事の出来ない屈辱の記憶が眠る場所でもあった。

 

 且つて己の弱さをまざまざと見せつけられ、敵に背を向けて逃走せざるを得なかった記憶は、今でも確かな逃げ傷として刻まれている。

 

 だが、だからといって黄泉の門へ再度赴いている今、心が苦痛に歪むような事も無ければ、トラウマに屈するような事もない。過去の逃げ傷は、今までの時間で上塗りしてきたつもりだ。

 

(昔の俺と、今の俺は違う。それは、お前にも向けていた言葉だった…リュコス)

 

 アメティとはじめて出逢い、両親や周りの大人たちには何も告げずにこっそりと会っては様々な話をしていた幼き日の自分と、人であろうと魔物であろうと躊躇いなく斬り、殺し、その想いを踏み躙って任務に徹する今の自分。

 

 任務への迷いや殺人への罪悪感などという甘ったれた感情を抱いてやるは欠片も無いが、昔の自分とはかけ離れてしまったという認識だけはあった。

 

 それでも昔と同じように接してくるアメティに、ツヴァイは言外に何度も告げたのだ。

 

 時には昔の呼び名を封印し、“リュコス”と他人行儀に呼ばわって。

 時にはひたすら相手にせず、殊更に冷たくあしらい捨て置いて。

 

 それでもあの白狼の巫女は、ツヴァイがほんの少し情を向けるだけで花開くような笑顔を見せ、しつこいくらいに尾を振りながらついてきた。

 

 ツヴァイが昔の名を捨てていた事も、昔とは変わってしまったことも受け入れたうえで、それでも共に居たいと、彼女もまた言外に訴えかけていたのだ。

 

(待っていろ…今度は俺がお前に応える番だ)

 

 ぽつり、と幼い頃の呼び名で彼女を呼びながら、ツヴァイは黄泉の門を目指して荒廃した道を走り抜けた。

 

 

 

************

 

 

 

 唐突に意識が浮上し、目を覚ました。零体の時とは異なる、確たる質量を持ったその感覚に、アメティはやや戸惑いを覚える。

 

「これは…身体、が…?」

 

 思わず自分の身体をぺたぺたと触り、周囲を見渡す。辺り一面は暗闇に塗り潰されているが、リアルな感覚はおよそ夢とは思えぬものだった。どうして自分はこんな場所に居るのか、記憶をたどってみるが見当がつかない。

 

「…っ、そうじゃ!ツヴァイ…ツヴァイは…!?」

「―――目が覚めて真っ先に想い人の心配だなんて、健気なのね」

「なっ…!?」

 

 耳元に吹き込まれた言葉に思わず戦慄く。身体が硬直したように動かなくなり、アメティは振り向けもしないまま背後からの言葉に震えた。

 

「…何奴じゃ、お主……」

「……そうね……この場所の“核”、とでも言うべきかしら」

「はっきりと答えんかっ!此処は何処じゃ!ツヴァイは…ツヴァイに、手は出しておらぬだろうな!?」

 

 喚くように問いかけると、背後の声がくすくすと笑うような気配がした。声が笑うたびに、ざわざわと鳥肌が立つような嫌な感覚が肌の上を走る。

 

「あの子には、以前も今も、特別何もする気はないわ。…邪魔をしなければ、の話だけど」

「……っ、」

 

 寒気が走るような感覚を嫌って思わず口を噤んだアメティに、声はまたもくすくすと笑う。人の負の感情を誘発するような、不快で冷たい笑い声だった。

 

「…でもきっと、あの子は邪魔をしに来るでしょうね。手傷を負ったまま此処へ来て、ぼろぼろになるまで戦って、傷付いて……そしてこの場所に喰われて、死んでしまうんだわ。……他でもない、貴女の為に」

「わ、儂の為に、ツヴァイが…?」

「そう…、貴女の為に。貴女が居る此処へ、貴女を助ける為だけに、死地であるこの場所へやって来るの。きっと、あの子は命尽きるその時まで、諦めないでしょうね」

 

 そんな筈はないと啖呵を切って振り払える程、その声は手緩くはなかった。ツヴァイを想う心に僅かに空いた小さな隙間から目敏く入り込み、アメティの心を内側から急速に凍えさせていくかのようだ。

 

 ぴしり、と体の内側が冷たく軋むような錯覚を覚える。喉の奥に鈍い痛みが走り、全身が怯える子供のように戦慄いた。

 今すぐに此処から逃げ出したいとさえ思うが、周りに広がる塗り潰されたかのような黒はそれを許してはくれない。

 

 知らずの内にアメティの心の奥底に溜まっていく狼狽を、声は鋭く察知したらしい。嫌な笑い声が再び辺りに響いた。

 

「考えてみて?貴女が魂の具現となって延命しなければ、あの子は懲罰だけで済んだかもしれない……暗殺者を探して過酷な旅をする必要も、毒のナイフを受けて怪我をする必要も……、これから、此処へやってきて死んでしまう必要も、無い筈なんじゃなくて?」

「っ、それは……」

「あの子の苦痛は全て、貴女に起因しているの。貴女さえ居なければ、あの子に死の危険が迫る事は無かったでしょうに……あの子が可哀想ね」

「違う、ちがう…っ」

「貴女だって、うすうす気付いてはいたんでしょう?ただ、認めようとしなかっただけ…」

 

 違う。ツヴァイはそう簡単に死んだりはしない。負けたりしない。力なく否定の言葉を漏らそうとするが、迫る声を押しのける事は出来なかった。声が突きつける言葉一つ一つが、冷たい真実としてアメティの心に突き刺さっていく。

 

 白狼であるが故に、この空間の異常なまでの凶暴性と危険性が、アメティには解っていた。この空間に普通の人間が足を踏み入れるだけでも、自殺行為である事も、十分すぎる程に分かっていた。

 

 自分のせいで、ツヴァイが辛い選択を強いられている。そればかりか、ツヴァイはこれから死んでしまうかもしれないのだ。ずっと抱えていた思いを暴かれる痛みが鋭く心に突き刺さった。

 

「……いたい?つらい?

 つらいでしょうねえ……自分のせいで、大事な大事な愛しい人がこれから死んでしまうなんて…でもね、そうさせないだけの力が、貴女にはあるのよ?“白狼の巫女”、アメティスタさん……」

 

 自分の周りを這いずる声が、尚も愉しそうな声音で告げる。思考に靄がかかり、目の前に広がる暗闇が徐々に霞んで、ぼやけていった。鼻をつく濡れた匂いは、己の涙であろうか。

 

「わしに、できることが…ある…と?」

 

 知らず、縋る様な声が漏れる。声の言葉によって焦燥し傷付いたアメティの心は疲弊しきっていた。何より彼女の心を縛り付けるのは、想い人を傷付ける要因になっていたという事実。

 

 最早まともな判断など出来る筈もない。

 

 そんなアメティの様子を“見て”いるのか、声はいっそう愉しげに、さも嬉しそうに笑う。

 

「祈るのよ。此処を封じる、空や海、大地からの解放を。此処に閉じ込められた、亡者の魂の解放を……そして何より、あの子……ツヴァイの、白狼に縛られた宿業からの解放を。

――そして捧げるの。貴女の身体を……“わたし達”亡者の為に!」

 

 それは自分の内を侵食するような、しかし甘美な蜜のようでもある声音だった。多少の苦はあれどそれ以上の甘さを含んでいるかのような、性質の悪い麻薬のような甘く狂った響き。

 

 黒に塗り潰された空間の中、異常な状況と突き刺され続けた苦痛によって憔悴しきっていたアメティは、その甘美かつ倒錯的な誘惑に、無意識の内でこくりと頷いていた。