背後から音もなく振るわれたダガーの切っ先を、鞘で受け止める。ダガーを持つ相手の男が狼狽する気配が伝わってきた。そのまま相手の鳩尾を深く蹴り込み、次いで正面の茂みから強襲してきた2人を同じく鞘に納めたままの刃で殴りつけて地に落とす。
恐らく奇襲のつもりだったのだろうが、茂みに隠れる2つの赤い灯火が視えていたツヴァイには無意味な事だ。
「邪魔をするな。お前達に構っている暇は無い」
蹴られた事でダガーを取り落とした男に向けて吐き捨てる。忌々しげにツヴァイを睨み付ける男の耳は、人間のそれとは違って白い毛並みに包まれていた。
未だ大地を揺るがす轟音と地割れの音を聞きながら、ツヴァイは興味を失ったかのように男から視線を外す。
「この異常な状況で、白狼一族の魔力も分散しているか。俺にとっては好都合だ」
「穏やかじゃない発言ですね。この異常気象を抑えられるのは白狼の魔力だけかもしれないというのに…」
突然背後から投げかけられた声に、ツヴァイは肩越しに振り向いた。見ると、倒れ伏した白狼の間を縫うようにして、一人の白狼がツヴァイに歩み寄ってきている。
青い火を胸に灯したその身体の裏から覗く白い尾は、二本だ。
ツヴァイの肩ほどしかない痩身にも関わらず他を圧倒するようなその気配に、倒れている白狼が緊張し尾を震わせた。
「…それで?白狼一族の里に何の御用でしょうか、侵入者さん?」
「…お前は」
「僕は白狼一族の現族長、ムジカ。……侵入者から黄泉の門を守るべく、直々に出向きました」
儀礼的に頭を下げたムジカは、感情の薄い声でツヴァイに問いかける。いつの間にか、その胸に灯る灯の色は赤に変わっていた。
他人を見透かし、試しているかのような冷たい眼光に、ツヴァイは知らぬうちに眉を潜める。
このムジカという白狼は、どうにも好きになれない――ツヴァイは元来他人を好こうとはしない性質ではあるが――種類の性格をしている。嫌悪からか、肌の上をざわつきが這った。
「貴方はあの門をくぐって…何をするおつもりですか?普通の人間があの門の中へ入れば、良くて廃人、運が悪ければ内部に封じられた死霊たちに取り憑かれ、死ぬこともできず狂い続ける末路を辿る事になる…。
そこまでのリスクを負ってまで、貴方があの門を目指す理由は、何ですか?」
相も変わらず感情の薄い声と底が知れぬ表情で、ムジカが問うてくる。底なしの暗い沼のような気配に、しかしツヴァイは臆する事もなく正面から対峙した。
「アメティ…白狼の巫女アメティスタ・リュコスを奪い返し、過去の因縁を絶つ。俺の目的は、それだけだ」
「アメティスタ…か。そんな名前の白狼は、もう存在しませんよ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。逃げ出した巫女アメティスタ・リュコスは、暗殺者の凶刃にかかり死亡。白狼の里は新たな巫女を選び、事なきを得ました」
ツヴァイは、ムジカの言葉の裏に忌むべき事実が見え隠れしているのを感じた。特殊部隊として任務に従事するよりも以前から、何度も人間の汚く黒い部分を――赤い灯火を視続けて来たのだ。否が応でもそうした部分に勘付いてしまう。
ムジカはそれを察しているのか否か、対峙しているツヴァイにしか分からない薄い笑みを浮かべた。
「お前…」
「白狼の巫女は、黄泉の門の封印を守るのが義務。その為ならば命をも投げ出していいと誓って然るべき存在です。人柱でありながらただ一人の人間と添い遂げたい等と傲慢を口にし、あまつさえ里から逃げ出すなどという愚かしい真似をする巫女など、居ていいはずがありません。
そんな失態が広まれば、里の沽券に関わります」
ムジカは童話の朗読でもしているかのような口調で、すらすらと滑らかに告げていく。淡々と“白狼一族にとっての”事実を口にしていく彼の二本の尾は、少しも揺らいでいなかった。
「しかしながら、アメティスタは“誰が雇ったのか分からない”暗殺者によって命を奪われ、死亡…。“偶然にも”愚かな巫女が亡き者となった為、里は名実ともに新たな巫女を選び、儀式を滞りなく進める事ができました。
……たとえかつての愚かな巫女が魂の具現となって生き永らえていたとしても、アメティスタ・リュコスの名が里から抹消されたことに変わりはありません」
「……お前だったのか」
「人聞きの悪い。“僕は何もしていない”んですから、そんな黒幕のような言い方はやめてくださいよ。
……それで貴方は、既に存在していない者などの為に、あのような死地へ行こうというのですか?…自殺行為ですよ、それは」
白々しくも薄い笑みを浮かべ続けるムジカに、ツヴァイは眉間に皺が寄るのを自覚しながらも嫌悪を抑える事ができなかった。常ならばムジカのような考えも少なからず存在するものだと切り捨てて諦観にも似た冷静さを保つ彼には珍しい事だ。
それだけ、彼にとってアメティという存在は大きかったらしい。
「お前達にとっての都合のいい事実などどうでもいい。俺は奪われたものを奪い返しに行くだけだ」
「……成程。他人の覚悟に、口を挟むなと言いたい訳ですか。相応の覚悟がおありのようですね」
すうっと笑みを消したムジカは、暫し何かを観察するようにツヴァイの目をじっと見ていた。
が、やがて観念したような口調になって肩をすくめる。赤く染まっていた魂が、ゆるゆると青へ戻っていった。
「僕は長として、白狼の里を守らなければならない。その為には、大を生かして小を殺さなければならない事も多々あります。
…あの黄泉の門を中心として起こっている異常気象。本当は、里の者をあの中へ行かせて様子を探るつもりでしたが……」
そこで一旦言葉を切ると、ムジカはツヴァイの背後――堅牢にそびえる黄泉の門へと視線を移した。つられるようにしてツヴァイも背後の門へと振り返る。
「里の者を危険に晒すより、里の外の人間である貴方を行かせた方が都合がいい。
それに貴方は、“特別な眼”をお持ちだ。あの中に入っても亡者の魂に惑わされる危険は低いでしょう」
「…そうか」
「この里は、白狼の結界によって異常気象を緩和しています。帰り道の心配は不要ですよ」
冗談めかして笑うムジカには答えず、ツヴァイはただ黙って黄泉の門を睨み付ける。開くなら早くしろ、と急くように告げると、ムジカは不愉快そうな顔はせずにただ肩をすくめて笑ってみせた。
「…ツヴァイ、ご健闘を」
小さく告げられた言葉には答えず、ツヴァイはただ黄泉の門を睨む。白狼の里との利害の一致も、世界を崩壊せしめんとする異常気象も、彼にとっては詮無き事。
奪われたものを奪い返し、過去の因縁を絶つ。彼が動く理由は、それだけだった。
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「ほらツヴァイ、無茶しないの!」
それが彼女の口癖だった。今にして思えば自分が防御を知らない戦い方をしていたが為に口癖になってしまったのかもしれないが、当時の自分はそこまで頭が回っていなかった。
ただ、彼女に追いつこうと必死になっていたのだ。
1番目に特殊部隊に招集され、“アイン”のコードネームを与えられて自分の直属の上官となった彼女は、純粋に強かった。
女性でありながら隊の男たちを圧倒し、華麗かつ流麗な剣技で魔物や対象となった犯罪者を戸惑わせていた。幾度となく挑んだが、自分も彼女には勝てたためしがない。
≪ツヴァイ、ただ力だけ付けようとしてもダメなの。それを使いこなせるだけの器がなくっちゃ。器が出来上がってないのに力だけ付けても、そんなの豚に真珠じゃない≫
≪ブタニシンジュ…?なんなんだ、それ…≫
≪大層なものを持ってても、ちゃんとした使い方や価値が分かってないと無駄だってこと!わかった?≫
左利きである自分に、「相手を惑わして勝機を得られる」と言って抜刀術を教えてきたのもアインだった。東洋の剣士が右利きに矯正して使う剣術を敢えて左利きのまま身につけさせ、これなら東洋の剣士にも簡単には見切れないだろうから安心だ、と言って笑っていた。
≪この世に分かりやすい善悪なんて無いわ。完全な善人も完璧な悪人も、居ないのよ。だから、青い魂の人が、赤くなることもあるの…それだけよ≫
≪…それって、相手が仲の良い親友でも悪人、ってことになるだろ≫
≪同時に善人でもあるのよ。哀しいけど、それが人間なんじゃないかな。あなたが生まれ持った力で悩んでるのは知ってる。今すぐに答えを出さなくてもいいのよ。
悩んで悩んで悩み抜いて、納得のいく答えを出しなさい≫
直属の上官と部下という事もあって、アインと自分は2人1組で任務へ赴くのが常だった。あの日――ツヴァイの逃げ傷の記憶となった日にも、アインと共にこの黄泉の門を訪れていた。
自分が弱く未熟だったために、あの日は逃げ傷の記憶となってしまったのだ。
そして、それ以来アインは“遥か遠方の国へ行った”。人間としても兵士としても、ツヴァイに勝ったまま――勝ち逃げしたままで、いってしまった。
≪さあ、行ってツヴァイ。
……また会える時が来たら、その時には…わたしに勝てるように、なっててね≫
≪……、…≫
≪あなたは、優しい子…。そんなあなたに、こんな事を強いてしまってごめんなさい…≫
≪アイン……≫
≪でも、わたしはあなたが諦めの悪い子だって、知ってるわ。きっと強くなって、わたしに勝ってくれるって、信じてる。
だから…今は行って≫
あの日の彼女の言葉を思い出す度、過去の自分の非力さが忌々しくなる。自分にもっと力があれば、彼女を留める事ができたかもしれないのだ。
しかし、たらればの夢想をしたところで現実は変わらない。人間としても戦士としても自分に勝り、自分などよりも遥かに優れた人間であった彼女は、もういってしまった。
今の自分を見て、彼女は何と言うだろうか。
想像したところで仕様のない事だと分かっていながらも、ツヴァイは時折そう考えずには居られなかった。
「今度は必ず、お前に勝つ。……アイン」