黄泉の門をくぐると、そこには広がっていたのは“黒”だった。
それは暗闇でも闇でもなく、塗り潰されたかのような不自然なほどの黒い空間だった。
右を見ても左を見ても、見えるのは黒い空間ばかり。己の身体さえも視認できない異常な空間は、常人ならばものの数秒で発狂してしまうだろう。
しかし、ツヴァイにはこの空間のありとあらゆる場所に浮かぶ灯火が視えていた。一面に広がる黒を埋め尽くすようにして無数に蔓延る灯火の色は皆一様に血のように赤黒く、不気味に揺らめいている。
「いらっしゃい…ツヴァイ」
黒い濃霧そのもののような、おぞましくもどこか流麗さを感じさせるような“声”が不自然に響き渡る。
前後不覚の黒い空間では聴覚どころか方向感覚すらあてにならず、声の発生源がどこなのかは分からない。辺り一面から響いてくるその声は、まるでこの空間そのものが発しているかのようだった。
「ああ、やっぱり来てしまったのね…そんな手負いの状態で、こんな死地へ……。そんなに、あの白狼が大切なのかしら?そのせいで命を落とす事になるっていうのに…」
「黙れ」
まるで心の底から心配しているかのような声音が、この場にはひどく不釣り合いだった。
馬鹿馬鹿しい。所詮は死霊の塊が発する戯言に過ぎない。ツヴァイは声に惑わされる事無く冷静に告げる。
「ここは俺の死地ではない」
きっぱりとそう告げた時、空間全体に滲んでいた“声”の気配がツヴァイの正面へと集った。
黒く仄暗い塊が集まり、その奥から人影が現れる。辺りは暗闇に包まれているというのに、ツヴァイは何故かはっきりとその人物の姿形を捉えることができた。
(…アイン)
切り揃えられた前髪に、切れ長ではあるが優しげな瞳と、長く流麗な黒髪。その姿は、ツヴァイに戦闘の手ほどきをしたかつての上官アインそのものだった。
けれど、ツヴァイはそれがただの見せかけであることを知っている。
「……返してもらうぞ」
「あら……強情だこと」
アインの姿をした死霊の魂は、くすくすと不快な笑みを浮かべる。敢えてアインの肉体で自分の前に現れた死霊に、ツヴァイは激しい嫌悪感を覚えた。
――さあ、行ってツヴァイ。
……また会える時が来たら、その時には…わたしに勝てるように、なっててね
かつてアインと共にこの黄泉の門の内部調査を行った時、突如として現れた無数の死霊たちに不意を突かれた形になり、アインとツヴァイは戦闘を余儀なくされた。
アインもツヴァイも善戦したが、いかんせん多勢に無勢ではどうしようもない。体力の消耗に伴って状況は不利になっていった。
――あなたは、優しい子…。そんなあなたに、こんな事を強いてしまってごめんなさい…
撤退しようにも、死霊が集って形成された魔物に囲まれて身動きもとれない状況だった。未熟だったツヴァイは早くも体力の限界が訪れ、瀕死寸前となっていた。
現世への解放を渇望する死霊たちは自分たちの依代となる肉体を求めていたらしく、瀕死寸前のツヴァイを執拗に攻撃してきた。
それを悟ったアインは、確実に生存者を帰還させるために一つの決断を下したのだ。
――でも、わたしはあなたが諦めの悪い子だって、知ってるわ。
きっと強くなって、わたしに勝ってくれるって、信じてる。
だから…今は行って。
彼女は魔物たちを渾身の一撃で切り伏せ、一瞬だけ開けた道にツヴァイを強引に門の入り口まで放り投げたのだ。そして、ツヴァイに撤退命令を下した。自身が囮となりながら。
今と比べると力も弱く、未熟な兵士だったツヴァイはその命令に従うしかなかった。そうしなければ自分もアインもここで死に、作戦失敗に陥ってしまう事は容易に想像がついたのだ。
そしてツヴァイは、死霊と魔物に取り囲まれているアインを見捨てて、逃げた。
理由や経緯はどうであれ、ツヴァイにとっては敵を前にして背を向け、味方を見捨てた事実に変わりはなかった。あの事件を境にツヴァイは一切の甘さを棄て、心に逃げ傷を負いながらも自分を戒めて鍛錬を積み強くなった。
そんなツヴァイの“逃げ傷”そのものといってもいいアインの肉体で、死霊たちは笑う。
恐らくアインはあの後死霊と魔物に敗北し、心から死霊に従属し肉体を差し出すようにと蹂躙され、プライドも精神も無理矢理に打ち砕かれたのだろう。
既に彼女の心は死に、肉体は死霊たちによって辛うじて腐敗を免れている状態なのは目に見えて明らかだった。
「返してもらう、と息巻くのは結構だけれど…彼女がそれを望んでいるのかしらね?」
アインの肉体を操る死霊が、可笑しそうに嗤う。そして彼女がゆったりとした動作である一点を指さすと、暗がりの中から一つの青い灯火が現れた。
「……!」
その青い灯火の正体を見て、ツヴァイは僅かに瞠目した。
青い灯火を宿す主は意識を失ったかのようにだらりと両腕を垂らし、糸の切れた人形のように項垂れて佇んでいる。きらきらと輝いていた琥珀色の瞳も、瑞々しかった白く長い髪も、今はくすんでしまったかのように輝きを失っていた。
「アメティ…」
反応は、無い。意識を失っているのか、アメティはただ中空をぼんやりと眺めている。
すると、それまで“アイン”の周囲に漂うのみだった赤い灯火が、青い灯火を――アメティを取り囲むようにして集まっていく。やがてこの空間に存在する全ての赤い灯火が、青い灯火を埋め尽くさんばかりに群れを成した。
そして、集まった死霊は魔物の肉体を形成する。
グオオオオオオオッ…!
現れた魔物は、ツヴァイの何倍はあろうかという巨体を誇っていた。鳥、獣、甲殻類、爬虫類――ありとあらゆる生き物を継ぎ足したかのような合成獣じみた外観に、髑髏のような不気味な顔がけたけたと乾いた音を漏らしている。
そしてその胸部には、アメティの姿があった。虚ろな目で中空を眺める彼女の身体は、魔物の肉に埋もれるような形で上半身のみが露出している。
「その心までは手に入らなかったけれど…彼女に私たちの解放を願わせることはできたわ。もうじき黄泉の門は開き、この魔物が外の世界へ解き放たれる…そうなれば、私たちは解放されるのよ!
ねえ、どうかしらツヴァイ?とっても強そうで、素敵なだと思わない?ねえ―――」
“アイン”は薄ら笑いを浮かべながら魔物を満足げに眺めると、やがてツヴァイに向き直ろうとして――動きを止めた。
「え…?」
“アイン”の呆けたような声が漏れる。はらり、とその黒髪が地面に落ちてゆき、首筋が音もなくすうっと一文字に切り裂かれた。やがて、ゆっくりと血が滲み、噴き出してゆく。
「――黙れ。死霊風情が、その肉体でそれ以上喚くな」
侮蔑しきった目で冷淡に言い放ち、チン、と刃を鞘に仕舞う。やがて“アイン”が声もなく悲鳴をあげるのを、ツヴァイは不快そうに一瞥した。
一撃で切り殺すつもりで放った剣戟であったが、僅かに避けられたのか致命傷には至らなかったらしい。
それでも大きなダメージは負ったようで、“アイン”は不愉快な悲鳴をあげながらも暗闇の奥へと溶けるようにして消えていった。恐らく暗闇の奥で傷を癒すつもりなのだろう。
これで邪魔者は居なくなった。ツヴァイは顔を上げ、目の前の魔物を――赤い灯火に閉じ込められたアメティを見やる。
相も変わらず虚ろな表情を浮かべる彼女の瞳は、どこか悲しげにも見えた。
「……自分さえ居なければ、俺が傷付く事も、此処へ来る事も無かった…自分が犠牲になれば、俺は自由になれる、だから帰りたくはない……大方、そんな所か。くだらない」
口では辛辣に吐き捨てながらも、その口調はどこか柔らかい。ツヴァイは柄に手をかけると、精神を研ぎ澄まして構えをとった。
臨戦態勢をとりながら辛辣な台詞を吐き、けれどその声音と口調は柔らかく――そして、瞳はどこまでも優しい。端から見ればそれは奇妙な光景であっただろうが、ツヴァイを良く知る者であればそれが普段の彼に比べてどれだけ優しいものであるか、一目で判断がついただろう。
怒りと僅かな後悔、そして優しさよりも遥かに深い感情が、今のツヴァイの胸中を占めている。
やがて魔物が雄叫びと共に両腕を振り上げ、風を切る音と共に力任せに振り下ろす。ツヴァイは飛び退ってそれをかわすと共に刃を振るった。魔物の体液が周囲に飛び散るのには見向きもせず、刃を再び鞘に仕舞う。
抜刀術――アインによって教え込まれた技は、力任せに攻撃をするばかりの魔物を相手取る時には大いに有用だ。この魔物も、図体は大きくとも所詮は死霊が集っただけの木偶にすぎない。
動きさえ見切ってしまえば、ツヴァイにとって何ら障害には成り得なかった。
「俺はお前が何を思おうと、知った事ではない。好きにするといい」
魔物の拳を紙一重でかわし、一閃する。動きは必要最小限に留めながらも、着実にダメージは与え続けていた。しかしこの場に在った死霊の殆どが集っているだけあって体力だけは並み以上にあるらしく、魔物は一向に怯む気配を見せない。
このまま戦い続けてもこちらが消耗するだけだ。ならば、確実に息の根を止められるだけの決定打を狙うしかない。ツヴァイはアメティの瞳を見据えながら、精神を研ぎ澄ませて狙いを定めた。
「……だが、俺はお前にしか心を揺り動かされない。俺の“心”はお前と共に在る」
一切の動きを止め、身体の余計な力を抜き、刃の柄に手をかける。それを諦めとでも解釈したのか、魔物は一層激しい雄叫びをあげながら身体全体で突進を仕掛けて来た。
その両手に生えた不格好な鉤爪が、ぎらりと不気味に光る。しかしそれを目の当たりにしたところで、ツヴァイの心にはさざ波の一つも立つことはなかった。
「……お前は、自分もろとも“俺”を殺すつもりか?」
アメティ、とその名を呼ぶ声はまるで睦言のようにふわりと響き、アメティの耳へと届く。
その声はこのおぞましい空間に不釣り合いなほど、優しい響きを持っていた。
瞬間、魔物の突進がやや鈍くなる。その胸に閉じ込められたアメティの瞳がぴくりと動いて僅かに輝きを取り戻すのを見て、ツヴァイは迷うことなく刃を振り抜いた。
鋭い金属音と共に一筋の光が走り、そして一瞬で闇に溶けるようにして消える。先程まで雄叫びをあげていた魔物は声を失い、頭を前に突き出した突進の体制のままぴたりと制止して動かなくなった。
暗闇の中で一瞬だけ、まるで時が止まったかのような錯覚を覚えそうな程に音が消える。
やがて、ツヴァイが刃を鞘に仕舞う音が小さく響いた。
それを皮切りにして、様々な音が戻ってくる。魔物の首と両腕の関節に一文字の傷が走る音。血が赤く滲み、勢いよく噴き出す音。ぶつりと腱や血管が切れる音。異形のものの首と両腕が、ぼとりと地面に落ちる音。そして合成獣めいた魔物の、醜い悲鳴。
ツヴァイは眉一つ動かさずにその全てを聞き流すと、目にも止まらぬ速さで魔物の胸を切り裂いた。ぐちゃりと肉が開き、閉じ込められていたアメティの身体が魔物の肉から解放される。
ふらりと前のめりに倒れそうになった彼女の身体を、ツヴァイは優しく受け止めた。アメティの身体が崩れ落ちるのに合わせて、ツヴァイも膝をついて彼女を胸に抱く。
「…アメティ」
短く、しかしはっきりと呼びかける。それまで虚ろだったアメティの瞳に、徐々にではあるが光が戻っていった。再度呼びかけるとアメティはぱちぱちと瞳を瞬かせ、きょとんとした力ない表情でツヴァイを見上げる。
「…ツヴァイ……」
「…ようやく戻ったか」
先程までの言葉が、聞こえていなかった訳ではないのだろう。暫し呆然としていたアメティは、やがて嬉しそうにほほ笑みながらツヴァイの首にそっと抱き着いた。ぱたぱたと振られる尻尾を尻目に見ながら、ツヴァイは黙って彼女の背に手を回す。
「…ありがとう、ツヴァイ」
「ああ」
「……すまんのう、ツヴァイ」
「…ああ」
「……あいしてる」
「……知っている」
彼女の言葉に優しく答えたツヴァイの口元に笑みが浮かびかけた、まさにその瞬間だった。
――アハハハハハッ!!アハハハアハハッアハハハハハッ!!
耳をつんざく笑い声がきりきりと響き、鼻の奥に痛みが滲むような感覚と共に死臭が立ち込める。空が一瞬にして血のような赤に染まり、ツヴァイ達の頭上にどす黒い闇の塊が現れた。
「強くなったわね…ツヴァイ。本当に…。でもね、あれは身体が大きなだけの、ただの魔物。貴方があれを倒してしまうことくらい、予想はついていたわ」
やがて、闇の塊の中から“アイン”が現れた。先程の傷は既に治癒したのか、余裕めいた笑みを浮かべている。
空の赤は、どうやらアメティが解放されたことで拠り所を失った赤い灯火が倒れ伏した魔物の身体から離れて頭上へと敷き詰められたものであるらしい。
歪んだ表情で笑い声をあげながら、“アイン”は憎々しげにツヴァイを睨みつける。
「今度は、私が相手をしてあげる。もう門は開けられる…私だけでも、死霊の解放は成せるのよ!邪魔に成り得る貴方を殺してしまえば、悲願は達成したも同然だわ!」
ズズズ、と背後から音が響く。見ると、黄泉の門が僅かながらに開きかけていた。ツヴァイが此処に入った後にしっかりと閉じられた筈だが、アメティの祈りの影響で封印が緩んでしまっているらしい。
「まずいぞ、ツヴァイ…!あ奴め、全ての死霊と共に外の世界へ出るつもりじゃ!あんなものが外へ現れたら、世界は死んでしまう…!…わしの、せいで……こんな…!」
「自責なら後にしろ。今は…」
赤い空の下で声を上げて笑う“アイン”を睨み付けながら、ツヴァイはそっとアメティの身体から手を離して立ち上がった。
アメティがはっとした様子でツヴァイに追いすがる様な声をかけてくる。
「…ツヴァイ?」
「要するに…奴を外へ出さなければいいだけの話だ。そうだろう、アメティ」
「う、うむ……」
ツヴァイの質問の意図が分からないのだろう、アメティは歯切れ悪く頷いた。ツヴァイは肩越しに彼女の背後を見やり、再び“アイン”に向き直る。
そうするとアメティに背を向ける形となり、彼女の表情も様子も、ツヴァイからは一切が視認できない体勢となった。
「…先に行け、アメティ」
「え……?」
「俺は此処でやり残した事がある。お前が居ては足手纏いだ」
「ぇ…ツヴァイ……何を…!」
刃の柄に手をかけながら、ツヴァイは振り返らずにアメティの腕を掴んで無理矢理に立たせる。
すると、彼の意図を察したのだろう。アメティは必死になってその腕に追いすがった。
「ツヴァイ!待て、待たんか!!この空間に人間が長く居っては、何が起こるか分からん!ヘタを打てば、汝はこの空間に永遠に閉じ込められてしまうのだぞ!?ツヴァイ!!」
振り返らずとも、ツヴァイにはアメティの表情が手に取るように分かった。髪を振り乱し、涙を散らしながら必死になって自分を引きとめようとする彼女はきっと、その表情を悲痛に歪めているのだろう。
実際、全て彼女の言う通りだった。アインと共に行った内部調査の時は外側に待機していた白狼が素早く門を開いてくれたお陰でツヴァイが外へ逃げる事が出来たが、今はその白狼一族は全員が自然災害への対応に追われている。
族長のムジカも里の結界の維持に追われて黄泉の門に対処しきれるかどうかは分からない。
そしてアメティは魔物の身体に閉じ込められていた影響でひどく精神力を消耗しているため、一人で黄泉の門の開閉ができる状態ではない。
アメティだけを先に逃がしてしまっては、ツヴァイが此処から出られなくなるかもしれないのだ。
それでも、ツヴァイは振り返る事をしない。もう二度と、敵を前にしてこの場から撤退する訳にはいかなかった。
それに、とアメティの腕を掴む手に力を籠める。この空間に、二度も大切なものを奪わせるつもりは無い。
「……行け」
「いやじゃ…!ツヴァイ!ツヴァイッ!!!」
縋るアメティの手を振りほどき、その身体を黄泉の門めがけて突き飛ばす。アメティの細い身体は僅かに開いていた門の隙間をくぐり抜け、向こう側の光の中へと吸い込まれていった。
「ツヴァイ―――――――ッ!!!」
次の瞬間、アメティの悲痛な呼び声は、ツヴァイを逃がすまいとする死霊たちによって掻き消される。
僅かに開いた門の隙間は赤い灯火によって埋め尽くされてしまい、向こう側は完全に見えなくなってしまった。