太陽も月も無い、紅に塗り潰されただけの空が辺り一面を赤く照らしている。
生の息吹が感じられないその紅は太陽や月といった一点の光源があるわけではない為、紅い光は空全体が一つの照明であるかのような奇妙な照らし方をしていた。
しかし、それらはツヴァイにとって何ら障害に成り得なかった。むしろ視界を阻む眩い光源が存在しない点では戦いやすいとも言えるだろう。
右腰に下げた軍刀の柄を握り、親指を鍔にかけて力を込める。まだ刃は振り抜かない。刃を鞘から抜くのは敵を殺める一瞬のみに留める事が望ましく、不用意に抜いてはいけない――それもまた、アインの教えだった。
「…焦っているのね?」
アインが――否、アインの身体を動かしている死霊が、空気を震わせて呼びかけてくる。冷たい霊峰の風にも似た声音が肌に触れるたび皮膚は不快に粟立ち、鼻の奥にキンと痛むほどの冷たい臭気が走る。
不快感と嫌悪感に眉根を寄せるツヴァイとは裏腹に、死霊はにやにやと薄く笑っていた。
「あの白狼の巫女がとりこまれた魔物…あれをあんなに速く片付けていたのは、焦っていたからでしょう?」
「…何が言いたい」
眉間に刻まれた皺はそのままにツヴァイが問うと、死霊は不快な笑みをより一層深めて歪んだ笑い声を上げる。
「本当の貴方なら、あんな無駄な刃の振るい方はせずに一振りで相手を仕留める戦いをしようとする筈…。それが、相手の動きもろくに観察せずにあんな斬り方をするなんてね……何をそんなに焦っているのか、当ててあげましょうか?」
「…………」
ツヴァイは答えない。ただ唇を引き結び、相も変わらず眉を顰めて死霊を睨んでいる。その反応を図星ととったのか、死霊は笑いながら尚も続けた。
「あの白狼の巫女を、早く解放してやりたかった…そうでしょう?手負いのその状態で戦闘を長引かせれば、巫女にも貴方にも良い事はないものね。貴方は、貴方が思っているよりも深く…あの巫女の生存を願っているわ」
「……だったら、どうした」
「あら、私に言われなくても分かっているんじゃなくて?それとも、気付いていて気付かないフリをしているのかしら……賢しい悪あがきね。
――貴方が本来背負っていた任務、忘れたわけじゃないんでしょう?」
反射的に手に力が篭もり、刃がカチリと軋んだ音を立てる。蚊の泣き声ほどの音を聴きつけて、死霊はまたも笑いを深めた。
ツヴァイが本来背負っていた任務とは即ち、アメティの殺害だ。
「あの巫女を助けたところで、僅かな延命にしかならないわ。再度同じ任務が下された時……貴方は、あの巫女を殺せるのかしら?
教えたわよね?如何なる時でも任務を最優先、個人的な感情を持ち出してはいけない、って。貴方はいつだってそうしてきた…確保対象が泣き叫ぼうが命乞いをしようが、相手が男だろうが女だろうが、幼子だろうが老人だろうが、決して私情を挟まず心揺らがなかった……。
同じことが、あの巫女にも出来る?」
死霊はさあどうだと言わんばかりに勝ち誇った笑みを浮かべている。ツヴァイの核心を突き、うまく動揺を誘ったつもりでいるのだろう。
実際、死霊がとった心理戦は直接的であからさまではあるが効果的なものだ。常人ならば先程の言葉を受けて動揺し、戦意を削がれて隙を生じさせていただろう。――そう、常人ならば。
キイン、と鋭い金属音が静かに響き、死霊の身体を浅く斬り付ける。アインの身体である頬が真一文字に浅く抉れ、数瞬後に血が滲んで流れ出した。ぽたりぽたりと腕に滴り掌に伝い落ちる赤い血をようやく視界に映した死霊が、呆然と目を見開く。
「…ッ、貴方……!」
一度ならず二度までも不覚をとった屈辱から死霊がこちらを睨み付けてくる頃には、刃は再び鞘に収まっていた。ツヴァイは眉根を寄せたまま、平素と変わらぬ口調で呟く。
「今更になって問答でもするつもりか。……俺に迷いがあったのは確かだが、それをお前如きにとやかく言われる筋合いはない。
お前は葬る。アメティは救う。障害になるものは任務であろうと排除する。……それだけだ」
「…あんな、巫女のために……貴方が積み上げて来た今までの生き方を、否定するというの…!?貴方のこれまでの人生は、そんな簡単に棄てられるものではないでしょう…!?」
人は、自分のこれまでの人生をやすやすと否定することなど出来はしない。ツヴァイも例外ではなく、命令が下った当初はアメティの命と自分のこれまでとで揺れていた。
だが、それは既に過去の話だ。
「棄てられるさ」
きっぱりと切り捨てて、ツヴァイは再び刃の柄に手をかける。そして刃の鍔に親指をかけ、力を込めて押し上げる。鈍く輝く刀身が僅かに覗いた。
「世界の全ても、人間達も、白狼達も……俺の人生も、その全てを棄てられる。あいつの命に比べれば安いものだ」
怒りに顔を歪めた死霊が、何事かを叫ぶ。おそらく人語ではないのだろうその叫びに呼応して、死霊の身体を包み込むようにして紫色の球体が現れた。どくどくと脈動するように揺れるそこから無数に触手が伸び、先端が槍のように鋭く変化する。
数十本、数百本と伸びた触手は肥大化し、死霊の身体の数十倍はあろうかという長さにまで至っていた。
「さあ、来い。アインの記憶をなぞるだけの幻影(フェイク)……俺が奈落の底に叩き落としてやろう」
死霊が再び金切り声をあげ、呼応して触手がツヴァイに向かっていく。素早く突き出されたそれをツヴァイは避けようとはせずに、静かに刃を抜いた。
一瞬のうちに数度刃が煌めき、そして鞘に納められる。細切れにされた紫の触手が数瞬遅れてぼたりぼたりと荒れた地面に散った。
痛覚までは通っていないのか、死霊は顔を歪めるだけで痛みを訴える様子は無い。
休む暇もなく第二陣がやってくる。今度は同時に数本の触手が目を瞠る速さで襲い掛かった。
先程よりも素早いそれを後ろに飛び退いてかわしながら、ツヴァイは空中で刃を抜く。一瞬で鞘に戻ったそれはすべての触手の先端を斬り落とした。
しかし、斬り落とされた触手の先端は内側から生える様にして再生していく。不気味に脈動するそれは、心なしか先程よりも鋭さを増しているようにも見えた。
「…面倒な」
小さく毒づき、ツヴァイは頭上に居る死霊を睨む。この調子ではいくら触手を斬り落としたところでキリがない。こちらが体力負けして敗北するのが関の山だ。
ツヴァイはアームカバーのポケットから細長い容器を取り出した。透明な容器の中には赤い炎が揺らめき、蓋の部分はライターのように開閉式になっている。
それは、一般人でも魔物を対峙できるようにと政府が独占するかたちで製造・販売し、世界中に普及している手榴弾――正式名称はヒートグレネードだ――だった。地水火風雷の各属性の魔力を魔術発動寸前の状態で保持し、蓋を開けて中にあるスイッチを押す事で魔術が発動する造りになっている。
光や煙で目くらましをするものも携行しているが、今の状況で目くらましはあまり効果がないだろう。
片手でヒートグレネードの蓋を開き、スイッチを押して放り投げる。数瞬後にヒートグレネードを中心に周囲が爆発・炎上し、丁度襲い掛かってきていた第三陣の触手がその餌食となった。
ツヴァイは唯一爆散を免れた太い触手に足をかけると、刃の柄に手をかけたまま一気に駆け上がっていく。不安定に蠢く足場を利用しての綱渡りに、他の触手が驚いたようにうねった。
「…っこの…!何をする気!?」
死霊が叫び、ほぼすべての触手がツヴァイめがけて突進を仕掛ける。ツヴァイはその全てを斬り落とす事はせずに、身体を加速させることで回避した。
魔術を行使するうえで、人間にはそれぞれ得意とする属性がある。ツヴァイの場合、それは風であった。本格的な魔術は使わずに体術の補助としてのみ魔術を使用する彼は、身体に風を纏わせて加速の補助としたのだ。
いちいち触手を斬り落としても、斬った傍から再生するのであれば埒が明かない。触手の一本一本を狙い続けて体力負けするよりも本体である死霊を狙った方が確実なのは明白だった。
「――ハァッ!」
触手の根本――紫の球体に包まれた死霊の元まで辿り着き、ツヴァイは勢いよく刃を抜く。風の魔術の補助を受けたその抜刀は先程よりも数段速く、鋭かった。柄を握る手に確かな手ごたえが走る。
「ああああっ!!」
斬撃は球体の表面を切り裂き、内部に居る死霊の身体を切り裂いた。悲鳴をあげて身体を折り曲げる死霊の姿をツヴァイの視線が捉えた――その直後。
「ああああアアあアアアあああッ!!!」
死霊の悲鳴が不気味に歪み、球体の表面から刃が数本突き出てくる。日本刀のような形をしたそれは一瞬にも満たない速さで鋭く伸び――そして、ツヴァイの身体を貫いた。
「ぁぐ…ッ、…!」
鋭い刀がツヴァイの心臓付近の傷口を、更に抉るようにして突き立てられる。尋常ではない痛みにツヴァイの動きが止まった刹那、もう一本の刀が右脇腹を切り裂いた。肉が抉られる音が身体の内側から響く。
「痛いでしょう?苦しいでしょう?これでもまだ、自分を棄てられるなんて言えるのかしらッ!?」
「ぐあッ!!」
言葉と共に振り下ろされ、地面に勢い良く叩きつけられる。肺の中の空気が全て吐き出され、強く体を打ち付けた衝撃で頭がぐらぐらと揺れた。固くごつごつとした地面が皮膚を切り裂き、身体の至る所から血が滲み、青痣が浮かんでいる。
「ッ、ぐ……」
身体を起こそうとして腕に力を込めると、身体中に重く激しい痛みが襲い来る。骨にひびでも入ったのか、立ち上がると右足がひどく鈍い痛みを発した。
開いた傷口から夥しい量の血が流れ出ているらしく、肌に触れるとぬるりとした感触が走る。
ようやくのことで立ち上がったツヴァイに、再び触手が雨のように襲い掛かった。すぐさま抜刀し触手を切り裂くが、激しい痛みで魔術を発動する余裕も無いために速度は圧倒的に落ちている。数本の触手がツヴァイの身体をかすり、新たな血が流れ出た。
「チッ……」
思わず舌打ちが零れる。だが、先程の斬撃で死霊には確実にダメージを与えられた。中身が無数の死霊の塊であっても、肉体を失ってしまえば無力な魂に成り果てる。そこを突けばいくらでも勝機はある筈だ。
ツヴァイは短く息を吐くと、鈍く痛みを発し続ける身体を叱咤して刃の柄に手をかけた。先程の触手が額を掠めていたのか、額から目の縁を辿るようにして血が伝い落ちていく。
矢張り、全ての死霊の魂を相手にするというのは一筋縄ではいかないようだ。身体中を襲う重く鈍い痛みを自覚しながら、ツヴァイは決死の覚悟を固めた。
死ぬ気で戦わなければ、勝てない。