人間は魔術を行使する際に精神力を消費する。気力とも呼ばれるそれは人の心情や精神状態に左右され易くはあるが、決して無視することはできないものでもあった。
過去には無理を通して魔術を使用し続けた魔術師が外傷が無かったにも関わらず身体の至る所から血を吹き出して倒れ、意識不明の重体となった事例などもある。決して理論的とは言えないが、魔術の発動と精神力が大きく関わっているのは確かだった。
白狼一族の者であれば地水火風雷、そして光と闇の全ての属性の魔術を使用することができる。しかし人間の場合はそうはいかない。
多くの場合、人間は生まれつき得意とする一つの属性のみ魔術を扱うことができる。それは黄泉の門の守り人であり悠久の時を生きる白狼と、それに守られる脆弱な人間との決定的な差なのだろう。
そして人間は、魔術の使いすぎで精神力を使い果たし、前述の魔術師のように肉体が内側から崩壊してしまう事態を防ぐために無意識に力を制限しているという。精神力の限界を超えて魔術を行使することが無いようにと、本能で力を抑えてしまっているのだ。
では、それを意図的に解放した場合はどうなるか。
魔術師でなくとも、手練れの戦士ともあれば力の枷を解く術を知っている。
彼らは、生死を左右されるような絶対に負けられない戦いの場になった時、捨て身同然の戦法として意図的に枷を解く事が出来るのだ。
身体の余計な力を抜き、ふうっと小さく息を吐く。背筋を伸ばし、足を肩幅に開いて刃の柄をしっかりと握りしめた。相も変わらず立ち込める死臭にも似た不快な冷気を拒むことなく受け流していると、やがて粟立つ皮膚が落ち着きを取り戻していく。
「まだ諦めるには早くてよ?外界へ出る為の前哨戦だわ…貴方を此処で、惨たらしく殺してあげる!」
ツヴァイの行動を諦観ととったのか、死霊は昂揚した声をあげながら尚も触手を伸ばしてくる。高速で突き出された触手の、槍のように尖った先端は一直線にツヴァイ目がけて襲い掛かり、その肉体を容易く貫く――筈だった。
「な…っ!?」
一瞬。それは正に一瞬の出来事だった。触手の鋭く尖った先端が、ツヴァイの身体に触れるか否かという距離まで届いたその刹那、無残にも触手に貫かれる筈だったツヴァイの身体は、一瞬にして消えていた。
否、正しくは消えてなどいない。ツヴァイはただ“移動した”だけなのだ。
「貴方…ッ!」
死霊が忌々しげに、しかし驚きを含んだ口調で吐き捨てる。
ツヴァイの身体は突風ともいえる激しい風に包まれ、一瞬のうちに数メートルの距離を移動していた。
魔術によって意図的に追い風を発生させ、更に身体に風を纏わせての高速移動。迫りくる触手をかまいたちと抜刀の斬撃によって斬り落としながら、刃を鞘に収めてツヴァイは尚も加速する。
「そんな…!そんな魔術の使い方をして、只で済む筈が無いわ!」
死霊は焦ったような声音で触手を繰り出し続ける。その言葉に、ツヴァイは一切耳を貸さなかった。
問答なら戦闘前に終えている。敵の言葉にわざわざ耳を貸してやる必要などもう無いのだ。
ツヴァイを仕留め損ねて地面に突き刺さった触手を足場に、高速で駆け上がる。すると足場にされている触手ごとツヴァイを貫こうと、槍状の先端が突進してきた。
「捨て身の戦法でも、さっきと同じだと意味が無くてよ!?」
死霊が余裕を見せつけるかのような口調を叩きつける。だが、その肌には一筋の汗が伝っていた。ツヴァイは相も変わらず死霊には答えないまま、ふっと身を落とす。
そして次の瞬間には、ツヴァイの身体は触手から離れて数メートル上空へと飛び上がった。
「な…っ!?」
その行動に、死霊は驚愕を隠しきれなかった。空中に躍り出てしまうと、人間はただ重力に身を任せ落下する事しか出来なくなる。戦闘において敵を前にした状態で飛ぶなど、無防備な様を晒しながらどうぞ殺してくれと懇願するようなものなのだ。
しかし、今のツヴァイは重力に反抗することができる。
空中ですぐさま姿勢を整えたツヴァイは、風の魔術を更に増幅させた。纏った風と追い風が強くなった事でツヴァイの身体は空中を疾走し一息で死霊の元へと辿り着く。
不意を突かれた形となり、死霊は刀を展開するまでに数瞬の隙が生まれてしまう。その数瞬が、全てだった。
抜刀術の基本とは、刃を一刻も早く抜き身にする事にある。
その為には刃を鞘から抜く事に加えて、鞘を後ろに飛ばす動作も重要となる。鞘を後方へ飛ばすようにして勢いを付けて抜く事で、高速の抜刀が可能になるのだ。
この動作に必要な猶予は、僅か一瞬。一瞬が全てである抜刀術を駆使するツヴァイにとって、数瞬の猶予は十分すぎる程であった。
刃を振り抜くと同時に死霊の身体、胴付近を一文字に切り裂く。次いで向けられてきた死霊の紫に蠢く刀を二の太刀で切り払い、鞘に収めた後にすぐさま再び抜刀し切り裂いた。その動作を風の魔術による補助を最大限に活用して光速とも呼べる速度で繰り返し、触手や刀もろとも死霊を切り刻んでいく。
その様は、端から見れば音速で刃を振るい続ける鬼神にも見えただろう。
やがて右腕に僅かな軋みを感じると、ツヴァイはすぐさま手を止め凄まじいスピードで地上へ降り立った。尾を引く死霊の悲鳴を認識すると同時に、ツヴァイはその場に膝をつく。
「っ、ぐう…っ!!」
途端に想像を絶するほどの痛みが、全身を駆け巡る。身体に纏わせた風と追い風、そして光速の刃を実現させた風、地上に降り立つ際の風――数々の魔術を酷使し続けたツヴァイの身体は、既に限界を超えていた。
ごぷり、と喉の奥から血が溢れ、口の端から漏れていく。開いた傷口から流れる血の量も更に多くなっていた。
「この…っ、よくも!!」
痛みに呻きながら、死霊が怒りに任せて無数の触手と刀を同時に伸ばしてくる。高速で伸ばされたそれを咄嗟に刃で弾いてかわすが、それでも対処しきれない程に触手は無数だった。
高速で襲い掛かってきた刀とツヴァイの刃が、つば競り合いの状態となり静止する。その隙を突いてこちらを突き刺そうとした触手に、ツヴァイは雷属性のグレネードであるブリッツグレネードを投げた。空中に魔法陣が浮かび上がり、次いで発生した雷が触手に襲い掛かり動きを封じる。
そしてツヴァイが目の前の紫の刀に目を向けた瞬間、刀は退避するようにして後方に退いた。
「な…っ!」
不意を突かれて反応が遅れた隙を的確に突くようにして、もう一本の刀がツヴァイの背後に躍り出る。ツヴァイが振り向くと同時に、その刀が振り下ろされた。
「ぐああッ!」
上半身を袈裟懸けに斬り付けられ、ツヴァイの身体から新たに血が噴き出す。更に倍増した痛みにいよいよ倒れそうになるのを必死に堪え、ツヴァイは刃を振るった。
一の太刀、二の太刀で刀を弾き、退けさせる。だがその頃には、ブリッツグレネードによって戦闘不能となっていた触手が既に再生を終えていた。
「クソッ…生命力ばかり旺盛な死に損ないめ…」
吐き捨てる言葉にも力が無い。既に満身創痍となったツヴァイは肩で息をしていた。
負わされた数々の傷から流れる血は留まるところを知らず、ツヴァイの身体を赤く染めている。
身体を軋ませる痛みは多すぎて、痛覚は既に麻痺していた。重度のプレッシャーを感じさせる状況で身体が敵を前にした興奮状態となり、怪我も緊張も二の次になってしまっているのだろうか。
敵はまだ頭上に居る。倒すにはまず、地上へ叩き落とさなければならない。
ツヴァイは地面を蹴って飛ぶと、足元に風を生じさせて更に数メートルの距離を跳躍する。空中で体勢を整えながら刃を抜き、死霊を一閃した直後に逆手に持ち替えて身体を大きく回転させた。回転の勢いとスピードに乗って、刃が死霊の身体を1回、2回と切り刻む。
そして身体が一回転し、痛みに呻く死霊の身体を目の前に捉えると同時に刃を振り下ろした。
「あああああっ!!」
パキンとガラスが割れるような音と共に死霊を包んでいた紫の球体に亀裂が走り、砕け散る。死霊はそのままツヴァイの振り下ろしの一撃で地面へと落下した。
「っ、ああ……っ、この…っ、よくも!」
ここまでの斬撃で、ようやく死霊が消耗し始めているのが分かる。再び球体の中に入りこんで空中に浮かぶまでの余裕は無いようだった。
刃を鞘に収めて、ふと刃を握っていた自分の左手を見る。最早どの傷から流れ出ているのかも分からない血でグローブはべったりと染みを作っていた。数々受けた手傷のせいかグローブ自体も傷がついてぼろぼろになっている。
――これだけやって、やっとフェアに持ち込めた。
目の前に立っているのは、生涯一度も勝てた事が無い上官アインの身体を操る死霊。消耗しているとはいえ、身体はアインなのだ。一切の油断も許されないだろう。だがそれでも、ここで負けるわけにはいかないのだ。
「どうして、そんなになるまで戦えるの…?どうして、あんな巫女一人の為に、命を棄てられるの…?無事に戻ったところで、貴方はあの白狼を殺すように命じられているでしょう。……こんなのは、悪あがきでしかないわ」
彼女はどこか力の抜けたような表情で問いかけてくる。先程までの高圧的な態度とはどこか違うその様子に違和感を覚えるが、悩んでいられる状況では無い。ツヴァイは逡巡を切り捨てて答えた。
「俺はもうお前と問答をするつもりは無い。が、これだけは答えてやろう。
……俺は、アメティと再会した時から…あいつを殺さなければならない現実を、ずっと壊したいと思っていた。それを実行する。それだけの事だ」
「…その結果で、命を落とすことになっても?」
「つまらない事に命を賭けてやるつもりも、お前に命をくれてやるつもりも無い。命はあいつの為だけに使うと決めている。
…言いたいことはそれだけか。ならばお前との問答も、ここまでだ」
言い終えるや否や、刃の柄に手をかける。構えを取って対峙すると、彼女もどこか冷静さを取り戻したような表情で腰に下げられている刀に手をかける。それはアインが生前使っていた愛刀だった。
彼女の周囲に纏わりついていた無数の死霊たちの気配はいつしか消え、二人は赤い空に覆われた大地で対峙する。
白狼の巫女による加護も無ければ死霊の庇護も無い、正真正銘の一騎打ちが幕を開けようとしていた。