徒花


 ツヴァイはアインが手にしていた刀を手に取ると、投げ捨てられていた鞘にそれを丁寧にしまった。せめて刀だけでも現世へ持ち帰ってやらねば、アインに申し訳が立たない。

 

 そして出口である門を目指そうとして――不意に、足が動かなくなった事に気が付いた。

 

「なに…!?」

 

 見ると、ツヴァイの足には赤い色をした魂が人間の手の形をとって無数に纏わりついていた。

 

 切り捨てた死霊の残滓だろうか、その数は次々と増えている。

 

 赤い手は、まるでお前だけは絶対に逃がさないと言わんばかりに次々と折り重なってツヴァイの歩みを阻んでいた。

 

「く…っ、離せっ!」

 

 振りほどこうともがいても、痛みと出血で朦朧としつつある身体ではどうにもならない。そればかりか止まる気配のない流血によって眩暈を起こしてしまい、立っている事すら危うくなった。

 

「くそ…っ」

 

 刃を振り抜き、赤い手めがけて一閃する。しかし実体のない魂を切り裂くことは叶わず、刃は空しく宙を彷徨うだけだった。

 

 そうしている間にも、赤い手は足を伝ってツヴァイの身体をも抑え付け始める。

 

「この空間に…長く、居過ぎたか…っ」

 

 何か霊的な力が働いているのか、実体が無いにも関わらず赤い手は恐ろしい力でツヴァイの身体を抑え付けている。刃を持つ手にも負荷がかかり、刀身が力なく震え、視界が徐々に赤く染まっていく。身体を支配し続ける圧迫感に、やがて意識さえも曖昧になっていった。

 

 まだだ、まだ死ぬ訳にはいかない。

 

 ツヴァイは僅かに残った意志を振りかざし、現世へと続く門に手を伸ばした。その先に居る、白狼の少女に強く想いを馳せる。彼女にもう一度会うためにも、死ぬ訳にはいかない。

 

「……アメティ………!」

 

 重圧に耐えながら、やっとの思いで口にした彼女の名前。誰にも届く事無く冥府の闇に消えるかと思われたその名は、けれど予想を超えるかたちで受け止められた。

 

「…ここにおるよ、ツヴァイ」

 

 門へ向けて伸ばしていたツヴァイの手が、ふわりと優しい感覚に包まれた。赤く染まりかけていた視界が一気に清められ、身体を包んでいた圧迫感が薄れていく。

 

「汝は、死なせはせん。儂と共に、添い遂げるまで…絶対にな」

 

 ツヴァイの言葉を受け止めた声の主は、両手で包み込んだツヴァイの傷だらけの手と、その顔を愛おしげに見つめて――嬉しそうに、笑った。

 

「アメティ…!」

 

 驚きのあまり瞠目したツヴァイに、アメティはくすくすと笑った。ツヴァイはふわふわとして定まらない彼女の身体を見て、アメティが再び霊体となっている事を悟る。

 

「身体を取り戻したというのに、何故お前は…」

「そんなの、決まっておるじゃろう?」

 

 思わず問い詰めかけたツヴァイの言葉を、アメティは笑って遮った。この場に似つかわしくない快活な笑みを浮かべながら、ツヴァイの顔を両手で優しく包む。最期の瞬間のアインと、同じように。

 

「…汝が居らぬと、儂は満たされぬ」

 

 どこか切なげで愛しそうなその笑みに、ツヴァイは口元が緩むのを自覚しながらも目を細めた。それを見て、アメティがいっそう嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振る。

 

 ツヴァイはそれを制する事はせずに、真剣な表情に戻ってアメティに問いかけた。

 

「…それで、この状況をどうするつもりだ。何か策があって来たんだろう」

「うむ!勿論じゃ!汝は儂の言う通りにしておれば良い!大船に乗ったつもりで、すべて任せるが良いぞ!」

「…多少不安だが、分かった。任せてやろう」

「むわーっ!!多少不安、は余計じゃー!!信用せぬかー!!」

「それで、どうするんだ」

 

 どうでもいい事で怒り出したのを無視して問うと、アメティはむっとしたように唇を尖らせたが、やがて真剣な表情になって告げた。

 

「汝が持つ、その刃。それに儂の力を乗せて、この門を閉ざしている死霊どもを切り捨てる。

白狼の巫女の力と、魂の色を視る汝の目があれば、出来ない事ではない。…ただ、成し遂げるには両者が完全に魂の波長を合わせる必要があるそうじゃが…」

「…“俺”は“お前”だ。容易い事だろう」

「うむ!そう言ってくれると信じておったぞ、ツヴァイ!」

 

 アメティはにかっと笑うと、ツヴァイの隣へと身を寄せた。そして、刃を握るツヴァイの手に、そっと自分の手を添える。霊体である筈のアメティの手の感触を、ツヴァイは確かに感じ取っていた。

 

「太古の昔、ツヴァイのような魂の色が視える能力の事を、人は“アイジス”と呼んだそうじゃ。この技は、それを見た白狼一族が、アイジスの保持者が現れた時の為に継承していた、幻の技……。こなせる者は、もう残っておらん。

じゃが、儂と汝ならば!幻だろうと何だろうと、かるーくこなせる!」

「…当然だ」

 

 お互いの手をしっかりと重ね、刃を握る。魂の波長を合わせるなど初めての経験だったが、アメティもツヴァイも、どうすればいいのかは手に取るように分かった。

 

 もともと、霊体と化したアメティとずっと共に過ごしていたのだ。波長の合わせ方は、お互いの身体がよく知っている。

 

「…ゆくぞ、ツヴァイ!」

「ああ、やるぞ」

 

 門の隙間に群がる赤い灯火をしっかりと見据え、刃を高々と天に掲げる。

 

 2人で握っている刃を動かす時にも、合図など必要なかった。お互いの動きや考えを、息をするように読み取る事が出来る。

 

 アメティが何事か呪文を唱えると、刃に青白い光が宿った。それがアメティの巫女の力によるものだということは、目を向けずとも分かる。光の中に、彼女の気配が存在しているのだ。

 

 彼女の力だからこそ、安心して振るえる。そうでなかったらこの身を預けはしなかっただろう。

 刃を振り下ろすタイミングは、声を上げるまでもなく分かった。ツヴァイとアメティは寸分の互いも無く同時に刃に力を込め、正面の門を見据えて――、一気に振り下ろした。

 

「「――アイジス・カサルシィ!」」

 

 青い光を伴った刃が、道を阻む死霊たちを狂いも無く次々と寸断していく。全力を尽くす訳でもなく、力を抜き過ぎる訳でもない絶妙な力加減が必要とされたが、2人にとっては何ら難しい事ではなかった。

 

 ツヴァイにはアメティの、アメティにはツヴァイの意図が分かる。元から強かった結びつきが魂の波長を合わせた事で更に強まり、2人の魂は密接にリンクしていた。

 

 この冥府ですら、大した事が無いものだと思ってしまえる程に。

 

「「はああぁっ!!」」

 

 数回振りかざした刃を、最後に大きく振り下ろす。周囲を取り囲んでいた赤い灯火や赤い手は、その全てが形容しがたいおぞましい悲鳴をあげて消え去った。

 

「っ、はあ…はぁ…う……」

「やったのう、ツヴァイ!しっかりせい!あとは外へ出るだけじゃ!」

 

 刃を鞘に収め、アインの刀を握り直す。隣に居るアメティの存在を確かめながら、ツヴァイは門の外へと手を伸ばした。

 

 あと少し、あと少しで、アメティと共に現世へ帰る事が出来る。そうすればアインの刀を現世へ持って行って弔う事も出来るし、何よりアメティと共に過ごし、彼女の想いに応える事が出来る。こんなところで死ぬつもりは無い。

 

 ツヴァイは開きかけの門に手をかけ、やっとの思いで冥府から抜け出す事が出来た。

 

 先程からやけに視界の端にちらつく赤い色には、気付かないフリをした。

 

 

 

************

 

 

 

 窓の外に広がる景色を、漫然と眺める。緑が生い茂り、小動物が元気に草を食むその様子からは、数年前に世界崩壊の危機を迎えていたとはとても思えなかった。

 

 けれど、美しい自然が広がるその景色を見ても、ツヴァイは少しも綺麗だとは思えなかった。

 

 ――否、“思えなくなった”。

 

 

 黄泉の門の向こう、冥府へ閉じ込められた死霊達が現世への侵攻を試みた騒動から、既に5年もの月日が流れた。

 

 ツヴァイによって死霊達の企みが阻止され、ツヴァイとアメティが協力して冥府から脱出したすぐ後に、ツヴァイは眠るようにして意識を失った。

 

 ムジカによると、人間ならば存在しているだけでも精神にダメージを負ってしまう冥府に長く居過ぎたせいで、精神と肉体に異常をきたしていたのだという。

 

 あの時、赤く染まった視界――脱出の瞬間にも、視界の端にこびり付いていた、赤い色。あれは死霊達によって付けられた傷が侵食の証であり、意識を失っていた間も侵食は続き、やがてツヴァイの命を奪いかねないという事態にまで及んだ。

 

「ツヴァイ…どうじゃ、身体の調子は」

 

 部屋の扉を開けて、アメティが入ってくる。手には食器が載せられたプレートを持っていた。どうやら食事を持ってきたようだ。それに頷いて答えながら、ツヴァイは景色から目を離してじっと自分の手を見つめた。

 

 あの騒動から5年の月日が経った今でも、ツヴァイの外見は少しも変化していない。

 

 22歳の外見から、何一つとして、変化していない。

 

 侵食が進み、このままではツヴァイが命を失いかねないという事態になって、アメティがツヴァイを救う為にとった方法――それは、ツヴァイをアメティの“魂の伴侶”とする事だった。

 

 神の眷属である、白狼一族。その“魂の伴侶”となる事はすなわち伴侶となった白狼とまったく同じ時間を生きるという事だった。

 

 魂の寿命は伴侶である白狼と同一となり、どちらかが潰えれば、伴侶も潰える。まさしく一心同体となることで、ツヴァイの魂と肉体の寿命を守り、侵食を食い止めた。

 

 けれど、ツヴァイの身体には、それでも拭い去る事ができなかった爪痕が残っている。

 

「…スープ、か?」

 

 目の前に出された料理を見て、呟く。アメティは優しい調子で、ゆっくりと頷いた。

 

「うむ、儂特性スープじゃ。何のスープか、分かるかのう?」

 

 ツヴァイは目の前のスープをじっと見つめる。具のないスープは、どれだけ目を凝らしても、何のスープかは分からなかった。

 

「…わからん」

 

 分かる筈も無かった。

 

 色が抜け落ちた、灰色の視界では、何一つ分からなかった。

 

 死霊から受けた傷の後遺症で、ツヴァイは色が分からなくなった。

 

 目に映るものの全ては灰色に映り、灰色の濃淡でしか物の区別が付かなくなった。浅い橙色をしていた瞳は、いつしか色の全てが抜け落ちてしまったような、白に変わっていた。

 

 唯一分かるのは、アイジスによって視える、赤と青の魂の色。それ以外は、一切の色が分からない。

 

 人間が冥府で戦った代償としては、これでもまだ軽い方だとムジカは言っていた。

 

「分からぬか…まあ無理もなかろう!まだ、うまく物が判別できんのじゃろう?あまり無理はせん方がいいぞ」

 

 けれど、ツヴァイは後悔はしていない。それがアメティを救い、アインに報いるための代償だというならば悔やむ必要はどこにも無かった。

 

 だからこそアメティも罪悪感を感じないように、ただツヴァイを献身的に支え続けた。

 

「身体は、治っている」

「それでも、じゃ!物の判別ができぬままに戦ったら、怪我をするじゃろが!」

「…それもそうだな」

 

 5年の月日を経て、徐々に物の判別もつくようになってきた。この調子ならばあと半年もあれば以前の調子を取り戻せるだろう。

 

 色を失ったとしても、ツヴァイはアメティの隣に立ち続ける道を選んだ。魂の伴侶として生を共にし、共に最期を迎える時まで、それは変わらないのだろう。

 

 灰色のスープを口に運びながら、ツヴァイは外の景色へと目を移す。あの騒動の後、里へ戻らないと言ったアメティと共に住む為に建てた、小さな家。

 

 その窓の外に広がっているのは――2人が再会した、あの花畑だった。