はるか昔、月光の中で一匹の妖狐“磋怐”が生まれた。
九つの尾を持った黒いそれは、禍々しい力を以て暴れ回り世界を壊していった。
数え切れないほどの人間がその犠牲となって命を落とし、食い破られた世界のあちこちからは瘴気が溢れ出て様々な災厄を引き起こした。
人間たちは死力を尽くして磋怐に立ち向かったが、ことごとく返り討ちにされた。
やがて磋怐によって世界が壊し尽くされてしまうかと誰もが思っていた時、磋怐は一人の人間の男に出逢い、恋をした。
そして生き残った僅かな人間たちに向けてこう言った。
≪その男を伴侶として捧げよ。そうすれば大人しくしてやっても良い≫
滅びが目前に迫っている人類に、選択肢は無かった。
男は磋怐の伴侶として捧げられ、満足した磋怐は男を連れて人里離れた場所へと赴き、そこで人間たちによって封印された。
それでも磋怐が残した爪痕は大きく、未だ世界のあちこちからは瘴気が溢れ続けている。
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―――もう、会えないの?
涙で濡れた声が響く。ぼやけてどこか覚束ない視界に、目の前に立つ男の姿が映る。あぁまたこの夢かと、五十鈴はぼんやりと自覚した。
それは五十鈴が幼い頃から何度も繰り返し見てきた不思議な夢だった。
いつも見るのは、決まって男女の別れの場面。おそらくは女の視界を見せられているのだろう。
―――会えない。僕は、きみと一緒にいられない。
目の前に立つ男が、ゆるゆると首を振る。視界がいっそうぼやけてしまい、男の顔が見えなくなる。
女が膝から崩れ落ち、地面に手をついて叫ぶ。いや。あなたと離れるなんて。掠れた声と共に、地面に幾つもの雫が零れ落ちた。
―――そうするしかない
はっきりとした口調で、男が告げる。けれどその声は震えていて、隠しきれない涙の気配があった。
女が顔を上げたことで再び視界に映った男は、女に駆け寄って涙を拭うことはしない。まるで態度を以て女に現実を言い聞かせるように、何もしないでこちらを見守っている。
―――きみにも、分かるだろう
どこか柔らかな口調は、諦めているような響きさえあった。女が耐え切れず号泣し、悲痛な声があたりにこだまする。
さよなら、と告げる男の声が響いた。
「……はあ」
戸の隙間から差し込む日の光を浴びて、五十鈴は目を覚ました。開口一番に漏れたため息の原因は、今しがた見ていた夢にある。
「なんなのよ、もう……」
鬱屈とした気分のまま身体を起こす。何度も何度も見てきた夢は、今日も変わることなく悲しい夢のままだった。いつも女と男は別れてしまい、涙のなかで幕を閉じる。
五十鈴は悲しい話が嫌いだ。現実にしろ創作にしろ、幸せでなければ気が済まない。悲しいままに終わるなんて以ての外だ。
だからこそ、悲しみに始まり涙で終わるあの夢はどうも好きになれなかった。できることなら五十鈴自身が夢に飛び込んでハッピーエンドに変えてやりたいが、夢というものはどうもままならない。
五十鈴が二度目のため息を吐いていると、部屋の戸が控えめに叩かれた。ややあって部屋に入ってきたのは、五十鈴の母親だ。
母は起きている五十鈴の姿を認めると、安堵と寂しさが混ざったような笑顔を浮かべる。
「ああ、起きていたのね五十鈴。祠へ行く準備が整ったそうだから、知らせに来たのよ」
「うん、ありがとう母さん」
母の泣き笑いのような表情がいたたまれず、五十鈴はつとめて穏やかに笑って答えた。それを見た母は先ほどよりも少しだけ明るく笑みを浮かべ、「着替えさせてあげるわね」と五十鈴の襦袢を取り替えて袿袴を着せていく。
五十鈴の足は動かなくなった。
数日前にこの村で起きた落盤事故に巻き込まれて地下に落ちた時に岩の下敷きになってしまい、歩くのさえやっとの状態になってしまっていた。
それだけなら大怪我を負ったというだけで済まされたのかもしれないが、五十鈴の身体は地下に蔓延していた瘴気を大量に吸ってしまっていたのだ。
足はいずれ治るかもしれないが、瘴気ばかりは人間に祓うことはできない。放っておけば足が治る前に瘴気に蝕まれて死んでしまう。
そのため五十鈴は瘴気を祓う為に数日間だけ違う場所で過ごすことになり、今日がその出発の日だった。どうやら五十鈴が生まれ育った村から幾分か離れた場所に存在する祠でのみ、人間の身体から瘴気を祓うことが可能なのだという。
「気を付けてね五十鈴。ちゃんと帰ってくるのよ」
「心配しないでお母さん、しっかり身体治してくるよ」
駕籠に載せられた五十鈴の手を取って眉を下げる母に、五十鈴は朗らかに笑いかけた。祠が存在するのは“月に最も近い”とされる山の上。1人でそんな場所に数日間も預けられるなど不安でしかなかったが、今は自分よりもはるかに心配性な母を安心させてやりたかった。
やがて駕籠が出発する。五十鈴は名残惜しそうにする母に手を振って駕籠の中へと潜り込み、小さくため息を吐いた。
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祠にたどり着いたのは、東から登り始めていた太陽が真上までやってきた頃のことだった。
“夜天の祠”と呼ばれるその場所は、正午を過ぎた時間であるにも関わらずひやりとした空気に満ちていた。長い石段の先に広い敷地が広がっていて、五十鈴の位置からは正面に鎮座する木造の社の向こうに石造りの堅牢な建物がちらりと覗いているのが見える。祠というのはおそらくあれのことだろう。
五十鈴は駕籠を引いていた男たちによって降ろされ、社の中へと運ばれる。神を祭る場所である社の中に人間が足を踏み入れてもいいのかと思ったが、一切躊躇わない男たちの様子を見て「そういうものなのか」と強引に結論付けることにした。
男たちは五十鈴を広間の中心に正座させると、一言も喋らずに社を出て行ってしまう。そういうしきたりなのかもしれない。
ひやりとした社の中に一人きりになってしまい、五十鈴は“夜天の祠”に関する物語を思い出して思わず身震いをした。
夜天の祠に関する物語――それは“磋怐”の物語でもある。
その昔、この国を含む世界全土を荒らし回ったという恐ろしい妖狐・嗟怐の物語は、その封印が二度と解かれることのないようにと今も尚語り継がれていた。五十鈴の村があるこの美青槍櫛国に限らず、この世界の子供たちは幼い頃から嗟怐の話を読み聞かされて育つ。五十鈴もそうして育ったうちの一人で、残酷な物語を聞かされたあとに大人たちから嗟怐は実在するのだと言われてたいそう怖い思いをしたものだった。
夜天の祠は、その嗟怐を封印するために造られたものであるらしい。いくら瘴気を祓うためとはいえ、そんな場所で数日間も過ごすなど気が気ではなかった。
村からここに話が通っているのなら、きっともうすぐ五十鈴の前にこの祠の主が現れるのだろう。その主は磋怐に毒されているのではないだろうか。考え始めればきりがない。
けれど五十鈴は幼い頃から負けず嫌いで勝ち気な性分だった。嗟怐の物語に怯えても決して弱音を吐こうとはしなかったし、転んで怪我をしても涙をじっとこらえるような子供だった。
だからこそ、五十鈴は暗い社の中で自分を奮い立たせる。姿勢をまっすぐに正し、ろくに動かない足をきちっと整えた。
どんな“もの”が出てきたって、負けるもんか。
待っているのがどれだけ悲しくて怖い物語だったとしても、私がハッピーエンドに変えてやる。五十鈴はつとめて気丈な態度で、静かに祠の主の到着を待った。
それから数刻ほどして、ギシリという微かな音が五十鈴の耳に届いた。音は五十鈴から見て右奥の戸の向こう――外廊下の方から、小さく控えめに聞こえてくる。
小柄な五十鈴でさえ歩くときは大きく軋む音がしたというのに、聞こえてくるその足音はあまりにも小さく繊細だった。
生命を持つものとは思えないような、非現実的な足音。
やがて足音が止まり、右奥の戸がスウッと、やはり静かに開かれた。どんなものが現れるのかと、五十鈴は思わず身構える。
現れるのは誰か。やはり嗟怐だろうか。それとも嗟怐の眷属だろうか。それはどれだけおぞましい姿をしているのだろう。
かつて数多の人間を弄び、生きたままゆっくりゆっくりと身体の“中身”を掻き混ぜたという嗟怐の話を思い出し、知らず息を飲む。
そして戸の向こうから現れたのは――人だった。
否、“人に限りなく近いかたちをもつもの”と言うべきか。
まず目に入ったのは襟足を伸ばした紺桔梗の髪と、長い前髪に隠れ気味になっている満月のようなつるりとした瞳。陶器のような艶やかさをもったそれは、夜の湖面のように底が見えない。白く透き通った玲瓏な顔立ちは見るものを陶然させるとともに少しばかりの畏れを抱かせるような気配があった。
そして、何より五十鈴の目を引いたのは、“それ”の髪の隙間から覗く狐の耳と、正面から見てもその存在を認められるほどに大きな九つの狐の尾だった。黒と金の毛並みに彩られたそれは、ゆらゆらと気儘に揺れている。
「――伊凪 五十鈴、だね」
“それ”が口を開いた。紡がれた声は想像していたよりも低く、こちらの心の芯にまで浸透してくるかのような気にさせられる。
「僕は、冥仍……“冥に仍るもの”。ここでの数日間、よろしくね」
それは人間の青年と変わらぬ外見に狐の耳と尾を生やした、なんとも面妖でどこか秀麗な人物だった。
けれども五十鈴は冥仍と名乗る彼の、生命力を失った美しさに目を奪われると共に、彼に対してどこか既視感にも似た感覚を抱いていた。
「――あのっ、」
自然と口から言葉が滑り出る。
「いつか……、いつかどこかで、お逢いしませんでしたか」
それは、どこかの軟派者の決まり文句のような言葉だった。
口に出してしまってから自分がおかしなことを言ったことに気が付いて、五十鈴は思わず自分の口を両手で塞ぐ。けれども時すでに遅く、目の前の冥仍は満月色の目を僅かに細めた。
「ひょっとして…僕は、口説かれているのかな?」
「いえ!あの、すみません!忘れてください!」
少しばかり冗談めかした冥仍の言葉に、五十鈴は口から手を離して素早く頭を下げた。
冥仍は初対面での失態に慌てる五十鈴を見てくすりと小さく笑う。優美なかたちをした唇が、静かに弧を描いた。
「…ダメだよ」
冥仍の人差し指が、まるで幼子を窘めるような穏やかさで五十鈴の唇に触れる。少しの力も込められていない指一本を前に、五十鈴は硬直して動けなくなってしまった。
それは、恐怖とはまるで違うかたちでの緊張と動揺からくるものだった。この類の緊張を、今まで五十鈴は味わったことがない。
「僕にはもう、“あの方”が居るんだからね」
そう言っていっそう笑みを深める冥仍の姿を、五十鈴は忘れられなくなってしまう。この冥仍という青年自身が秘めている不思議な雰囲気がそうさせたのか、或いは。