「幾ら求めてもこの手は届かず」


 五十鈴が夜天の祠に来てから2日目の朝を迎えた。

 

 冥仍によって用意された五十鈴の部屋は社から少し離れた場所にぽつんと存在しており、やはり冷ややかな空気に満たされている。特に早朝などは更に冷えるため、五十鈴はどうしても布団から出るのが億劫だった。

 

 意識ははっきりと目覚めているものの起きる気になれずに目を閉じたままうだうだと布団の中で丸まっていると、やがて音もなく戸が開く気配がして五十鈴の身体が小さく揺すられる。

 

「…五十鈴ちゃん。ほら、起きて。朝だよ」

 

 それは夜天の祠で五十鈴と半同居のような生活を送っている、冥仍の声だ。

 

 体温をまるで感じない冥仍の手が五十鈴の布団をぽんぽんと優しく叩くのがなんだかくすぐったくて妙に心地良くて――やはりどこか、懐かしい。

 

「今日も“おつとめ”しなきゃ…ね?五十鈴ちゃん」

 

 手だけでなく、冥仍は身体全体が体温を持っていないかのように冷やりとしている。けれどもそれはこちらの体温を奪う冷たさとはまた違った、どこか心地良い涼やかさだった。五十鈴は目を閉じたまま、じっと彼の気配を手繰り寄せる。

 

「…まだ起きたくないかい?もうちょっと、寝坊助さんのままでいるつもりかな?」

 

 冥仍の声が困ったような、それでいて温かみのある色に変化する。その瞬間に五十鈴はぱっちりと目を開いた。広がる視界に映るのは、声音とは裏腹に悠然とした笑みを浮かべる冥仍の姿。人を惹きつけてやまない彼の微笑みを好ましく、そして懐かしく思う。

 

「…ばれてた?」

「とっくに。ほら、早く着替えて社においで。部屋の外で待っているからね」

 

 寝たふりを看破されたことによる照れ隠しでえへへと笑う五十鈴に、冥仍はふわりといっそう優しく微笑んだ。五十鈴の頭を数回撫でると、そのまま部屋を出て行ってしまう。

 

 五十鈴は冥仍が触れていった自分の頭に手で触れて、こみあげるくすぐったさに耐え切れず笑みをこぼした。

 

 足が不自由な五十鈴は、基本的に冥仍に抱きかかえられて移動していた。九尾の妖といえど長身の青年の姿をした彼に抱きかかえられるのは未だに恥じらいが拭えないが、とても近しい距離から彼の美術品めいた感情の読めない不思議な笑みを向けられると、どうしてだか身体は緊張して動かなくなってしまう。

 

 彼は、磋怐と同じ妖だ。狐の耳と九つの尾がそれを証明している。妖は伝説上の生き物とされるほどに希少で滅多に人の前に姿を見せない物の怪だ。当然人間ではないはずなのだ。

 それなのにどうして、この冥仍という青年には親近感を抱かされるのだろう。

 

 

 

 冥仍の言う「お勤め」とは、五十鈴の身体の中にある瘴気を取り除くための儀式の事だった。

 

 社の中央に楽な姿勢で五十鈴を座らせ、冥仍がその肩に軽く触れて何事か唱え始めて――五十鈴の記憶はいつもそこで途切れてしまい、気が付いたら儀式を終えた冥仍に抱えられている。

 

 冥仍曰く、人間の身体から一度に全ての瘴気を抜いてしまうと、人間の身体が耐え切れなくなってしまうらしい。だからこうして数日かけて少しずつ抜いていくほかないのだと、彼は五十鈴を運びながら丁寧に説明してくれた。

 

 瘴気が抜けるまでには個人差があり、五十鈴の治療には5日ほどかかるのだという。

 

 けれど五十鈴はどうしてか、もっと時間がかかってもいいのに、と思ってしまう。

 

「あの、冥仍さん」

「ん?」

 

 正午、冥仍が用意してくれた料理を食べながら、五十鈴はぽつりと口を開く。

 

 妖の主食は瘴気だ。料理をする必要など無いはずなのに、冥仍はすらすらと料理を作っては五十鈴に振る舞ってくれる。本当にこの人は、妖なのにどうしても人間に似ている。

 

 そんな彼の事だからこそ、五十鈴は聞いてみたいことがあった。

 

「冥仍さんが前に言っていた、“あの方”っていうのは…」

「…磋怐様のことだよ」

 

 五十鈴の正面であぐらをかいて座っている冥仍は、五十鈴から視線を反らして答えた。朝は悠然と細められた満月の瞳が、どこか揺れているように見える。

 

「僕は、磋怐様の伴侶なんだ。彼女に見初められて、今の僕がある。おいしい食べ物を食べる必要もないし、料理を作る必要もない……磋怐様が存在し続ける限り、僕もまた死ぬことはない」

 

 磋怐のことを話す冥仍の声は、どこかぼんやりとしていた。諦めているような、それでいて虚しさも感じさせるような、覚束ない口調だ。

 

「…あの方は今、石に姿を変えて、この地に縛られている。けれど…ここから出られないだけで、封印しきれてはいないんだ。月が浮かぶ夜になると、あの方は妖狐の姿を取り戻す。きみたち人間の身体から抜いた瘴気は、あの方が飢えて暴れないための供物さ」

 

 何度も何度もその台詞を反芻してきたような慣れた口調で、朝とは大違いの乾いた声で、冥仍は次々と言葉を紡いでいく。心ここにあらずといった彼の様子が居た堪れなくなった時、冥仍がふっと視線を戻した。中空で彼と五十鈴の視線がぴたりと重なり、冥仍の唇がゆるく弧を描く。

 

「あの方はとても嫉妬深いからね。きみも一時の過ちで、僕に“触れ”たらいけないよ。瘴気よりも先に、きみがあの方に食べられてしまうから」

 

 

 

 冗談めかして片目を閉じる冥仍は、既にいつもの彼に戻っていた。

 

 

 

 昼食を取り終えた後は、冥仍に勧められて祠の敷地内を散歩することにした。

 

 五十鈴は「女の子を地面に座らせる訳にはいかないからね」と言って敷かれた風呂敷の上に腰を下ろし、冥仍がその隣に座る。自然で嫌みのない淑女扱いに赤くなりそうな顔を叱咤して、五十鈴は冥仍に笑いかけた。

 

「冥仍さんは、夢って見ますか?」

「夢かぁ…見たことないかな。夜は磋怐様が離してくれないからね」

「え」

 

 俗世から隔離されたような美しさを持つ冥仍の口から放たれた俗っぽい言葉に、五十鈴は思わず思考停止する。が、それを見て「冗談だよ」とくすくすと笑う冥仍の声ですぐさま現実に引き戻された。

 

「ずーっとずっと…何百年も何千年も生きてるとね、“夢を見る”という行為自体を忘れそうになるんだ」

 

 何でもない風にぽつりと呟いた冥仍の言葉はどこか空虚だった。ふと見上げると、満月の色をした瞳は寂しげに儚く揺れている。まるで何かを諦めたような、それでいて叶わぬ願いを未だに夢見ているような―――月夜に揺れる桜のような、危うくありながら皮肉なほどに美しいいろ。

 

 私はこのいろを知っている。理由などは置き去りにして、直観的に五十鈴はそう感じた。

 

 そう、これはまるで、あの男女の別れの夢のような―――。

 

「五十鈴ちゃんはどうなのかな?夢は見る?」

 

 冥仍の声によって思考を中断され、五十鈴ははたと我を取り戻した。冥仍の瞳は既に玲瓏な清澄さを取り戻していて、先ほどまでの儚げないろは鳴りを潜めている。

 

先ほどまでは確かにその瞳に湛えられていたいろを思い出しながら、五十鈴は静かに口を開いた。

 

「…小さい頃から、悲しい夢を見ます」

「かなしい、夢?」

「恋い慕う男の人と、別れてしまう夢です。男の人は私の前から去ろうとしていて、私はそれを、泣きながら引き留めていて…」

 

 だけど、最後には決まって男の人は去ってしまって。いつも涙の中で目が覚める。

 

 自分の記憶の中にはあんな光景など無いはずなのに、五十鈴には夢の中の女性の悲しみが嫌というほどに理解できていた。だからこそ、夢であっても悲しい物語は嫌なのだ。

 

 五十鈴の話を聞いた冥仍は、何故だか黙して何も語らない。彼は安堵と悲しみがない交ぜになったような複雑な表情を浮かべながら、長い沈黙の末にようやっと口を開いた。

 

「……五十鈴ちゃんは、その夢が嫌いかい?」

 

「いえ、ちっとも。悲しいけど、何故だかとても大切な夢のような気がするんです。だから……あの夢みたいな悲しいことがあったら、何が何でもハッピーエンドに変えてやるんだ、って思うようになってて。私の原動力みたいなものなんです」

 

 夢を見た直後は流石に気持ちが沈んじゃいますけどね、と冗談めかして笑うと、冥仍は常に悠然としている切れ長の目を僅かに見開いて、その後でふっと小さく微笑んだ。

 

「…きみらしいね」

 

 

 

***************

 

 

 

 辺り一面が黒く塗りつぶされるような、暗い暗い夜の底。

 

 祠の敷地内は僅かな灯篭の火が頼りなく灯されているだけで、その光景は普通の人間ならば一歩足を踏み出すのにも勇気が居るだろう。

 

 けれども“普通でないもの”にとっては、他愛のない遊び場でしかない。

 

 複数の青く揺らめく炎が中空にゆらゆらと漂い、周囲を照らす。蝋燭も無しに燃え続ける篝火の中心には、冥仍が居た。狐火と呼ばれる妖狐特有のこの力は、冥仍にとってみれば便利道具のようなものだ。別に狐火が無くとも妖の目を以てすればこの程度の暗闇でも問題なく歩けるが、神秘的な青い炎の色が嫌いではないため、気分で灯している。

 

 既に五十鈴は床に就いている時間だった。冥仍は気ままに狐火を揺らしながら、敷地内の中心に位置する建物―――石造りの祠へとたどり着く。やはり石で造られた観音開きの堅牢な扉を、さして力を込めるまでもなく開いて内部へと足を踏み入れる。

 

≪あぁ……参ったか、冥仍や≫

 

 扉が閉まると同時に、祠内部にこだまするような声が響く。叫ぶような声高な音色ではないし、びりびりと身体が震えるような衝撃波が生まれる訳でもない、けれど確固たる存在感を秘めている声だった。

 

≪冥仍、ここへ≫

 

 その源は、祠の中心に描かれた陣の上に鎮座している。冥仍と同じ黒と金の毛並みに彩られた、九つの尾を持つ妖狐・磋怐。艶やかでありながらどこまでも冷ややかで冷厳な声音で、彼女は冥仍を呼ばわった。

 

 冥仍は膝をついて恭しく一礼すると、磋怐の目の前までゆっくりと歩み寄る。冥仍よりも一回りも二回りも大きな身体をした磋怐が満足げに笑んだ。

 

≪童の愛しい伴侶、童だけの“冥仍”。お主はほんとうに美しい…≫

 

 磋怐の九つの尾が冥仍の身体を包みこみ、絡め捕る。端正に筋肉のついた細い身体も、紺桔梗の細やかな髪も、満月の色を湛えた瞳も、不可思議で神秘的な気配を漂わせる玲瓏な顔立ちも、その全てが磋怐の思うがままに絡めとられてゆく。

 

 磋怐によって“冥仍”という名を与えられた時から、文字通り作り替えられて彼女の好みにしつらえられたこの身は、一切彼女に逆らえなくなった。

 

 何十回、何百回と訪れる夜を、磋怐の中で弄ばれ愛でられながら明かすのが常となった。

 抵抗することもできず何百年もそうしているうちに、やがて諦めてしまって、いつの間にかただそれを甘受する自分が居た。

 

 落とされた口づけを、“冥仍”は今宵も拒まない。