≪また昔の女のことなぞ考えておるのか?冥仍や≫
僕を呼ばわる磋怐様の声が聞こえる。口調こそ遊戯を楽しんでいるかのような余裕を装っているけれど、その内心は腸が煮えくり返るほどの凶暴な嫉妬心を秘めていることを、僕は知っている。
磋怐様は独占欲が強い。僕に懸想したものは人間だろうと同じ妖だろうと容赦なく血肉ごと無残に食い殺すし、他の妖が僕に視線を寄越すのさえ良しとしない。
僕の身体のあちこちに刻まれた入れ墨も、まるごと作り替えられたこの身体も、磋怐様の独占の象徴のようなものだった。
「…そんなことは」
ない、と言いかけた唇を塞がれる。なにで、だなんて野暮な事は詮索しない。
たっぷりの余韻を残しながら、磋怐様がまた笑った。飢えと嫉妬と憎悪と、様々なものがない交ぜになったかのような笑い方だ。
≪……まあ、良い≫
独占欲の強い普段の彼女からは考えられないような寛大な言葉だった。けれど、彼女が慈悲の心を抱いたわけではないことは分かる。
僕が他所事を考えているという現状を彼女が我慢していられるのは、もうすぐ彼女にとって至上の贄である“とびきり上等な瘴気”が食えるからだ。そのあとで、僕も食われるのだろうか。いつものように。
≪“あれ“が此処へくるのも、お前が物思いに耽るのも、いつもの事だ。いつも通り、食ってしまえば全て治まる。そうだろう?童の冥仍や≫
首肯はさせてもらえず、再び唇を塞がれる。たとえこの口が自由だったとしても、僕にはこの方の言葉を否定する権利は無いのだ。
人間だった頃のキレイだった身体と一緒に、無くしてしまった。
奪われてしまった。
妖でありながら人間の身体を持ち、狐の耳と人の耳の両方を持つ歪なつくりをした身体。磋怐様と同等の力を与えられたにも関わらず、その象徴は九つの尾と狐の耳だけ。他は全て人間だった頃のままのかたちを保っている。かたちだけは。中身はまるきり作り替えられてしまった。
そんな面妖で歪なかたちになった僕の身体を、磋怐様は奇麗だと言って笑う。
半強制的に娶られて結ばれたあの日、初夜の床で僕の身体をこんな風に作り替えた磋怐様は、とても満足そうだった。自分専用の美術品を手に入れたような、とても幸せそうな歪んだ笑顔だった。それに対して恐怖を抱いた事さえも、今となっては懐かしく思える。
時折、磋怐様は世界を壊しかけた妖狐にしては感情が豊かすぎるなと思うことがある。
それとも、感情や感受性が豊かすぎる彼女だからこそ世界を壊しかけるまでに至ってしまったのだろうか。
僕を手に入れてからの彼女は世界のことになどまるで興味がなさそうで、比喩無しに僕の事しか目に入っていないようにも見える。
きっと、この方は寂しかったんじゃないだろうか。
ずっと、隣に居てくれる人が欲しかったんじゃないだろうか。
何故だかそんな風に考えてしまう。
長すぎる時を生きたせいで、彼女に対する恐怖や怒りの全てを味わい尽くしたことで、どうやら僕はどこか変わってしまったらしい。
それでもきみは、こんなになってしまった僕を見ても「何も変わってないよ」と笑ってみせるんだろうか。
もうきみの返答を聞くことは叶わないだろうけれど、聞いてみたくもあるんだ。
“五十鈴”。
どうしてきみは、“此処”へ来たの?
***************
3日目にして、五十鈴はなんとか立つことができるようになった。
長らく動かせなかった脚は震えてしまって歩くのもやっとの状態だったが、それでも自分の足で立つことができる喜びは大きかった。
「やったぁ…!すごい、ほんとに治ったぁ!」
部屋に置かれていた箪笥につかまって震える脚を叱咤しながら、それでも五十鈴はぱあっと笑う。今まで移動の際に人の手を煩わせてしまっていた心苦しさを思えば喜びも当然のことだった。
けれども未だに本調子ではなくて。
「え?あれ?ぇああっ!?」
箪笥を掴んでいた手が滑って離れ、がたたっと大きな音を立てて畳の上に倒れこんでしまう。幸運にも敷きっぱなしだった布団がクッションになったおかげで痛みは無かったが、箪笥が本来あった場所からややずれてしまっていた。
「あっちゃー…やっちゃったぁ」
ずるずると上半身を起こして座り込んだまま箪笥を戻そうとするが、脚にまともに力が入らずにうまくいかない。どうしたものかと思っていると、ふとすぐ後ろに何かの気配がした。
「ぁ…冥仍さん」
「大きな音がしたから気になってね。大丈夫かい?怪我はない?」
振り向くと、何時から居たのか冥仍が相も変わらず清廉とした艶やかさで薄く微笑んでいる。
五十鈴は箪笥を動かしてしまったことを詫びたが、冥仍は笑みを浮かべたまま「気にしないで」と言うだけだ。美術品めいた生命力のない端正な顔立ちは、いつ見てもぞっとするほど美しい。
けれど、座り込んでいる五十鈴の身体を抱えて楽な姿勢で布団の上に座り直させてくれる所作はどこまでも優しく温かい。
思わず、五十鈴は自分の身体から離れていこうとする彼の手を握りしめた。
「…五十鈴ちゃん?」
冥仍の涼やかな瞳が、不思議そうに揺れる。この世のものとは思えない活力のない端正なつくりとそれに相反するような艶やかさを持っていながら、その瞳には無邪気さすらあるように見えてくる。
「っ、冥仍さん。わたし、」
分からない。自分がなぜ彼の手を引き留めたいと思ったのかも、どうして彼に対して懐かしさを感じるのかも、どうして彼との時間を惜しいと思うのかも。
ただ五十鈴には、こみあげてくるそれらをそのまま言葉にする余裕がなかった。
「わた、し」
「ん…どうしたの?」
冥仍の冷たくも優しい手が、五十鈴の髪をゆるゆると撫でる。その感触に安心すると同時に様々なものが胸の中に去来して、喉がつっかえた。
「かえりたく、ない」
その言葉に、冥仍が息を飲む。月と同じ色をしたきれいな瞳が見開かれ、大きく揺れていた。
目の前の五十鈴を見ているような、それでいて何か別のものも見ているような、不思議な目だった。
冥仍は数舜の間そうして固まっていたが、やがて何かの糸が緩んだようにふわりと笑う。
「……ダメだよ」
そっと、冥仍の人差し指が五十鈴の唇に触れる。初めて会った時とはどこか違った、柔らかな笑みを浮かべたまま、冥仍は目を細めた。
「きみにも、分かるだろう」
次いで告げられた言葉には、何かを諦めたような色が含まれているように聞こえた。
幼い子供を宥めるような口調で笑う彼の笑みを、五十鈴は心の何処かで泣きそうな表情だと思った。
その夜、五十鈴はまたあの夢を見た。
いつもと変わらぬ夢。男は去り、女は泣く。二人に幸せな結末は訪れない。
けれど一つだけいつもと違っていたのは、まるで五十鈴自身がその光景に立ち会っているかのような鋭敏な感覚が備わっていたことだった。
自分と視点を共有する女の、涙に濡れる喉奥の痛みも、脳裏に溢れて止まらない男との幸せな思い出も、世界を壊し回った妖狐への怒りも、耐え切れず自らの着物の裾を握りしめる手の感触も、全てが己自身の感覚であるかのように伝わってくる。
だからこそ、いつもよりも痛烈に悲しかった。
(どうして)
何十回と聞いてきた女の言葉も、いつもよりも重く鋭いものに感じる。目の前に居る男の顔が涙でぼやけてしまうことがどうしようもなく悲しく、そして悔しかった。
せめてちゃんと顔を見たい。それなのに、涙は溢れて溢れて止まらない。
男の言葉が正しいのは分かっている。男と別れなければいけないことも分かっている。
それでも、納得したくない、別れたくないという子供じみた思いが口をついて止まらなかった。
(どうして、いっしょになれないの?)
男を困らせ、悲しませている自覚はあった。
彼だって別れたくはないのだ。知っている。いずれ一緒になろうと約束していたのだから、お互いに何度も愛を紡いできたのだから、ちゃんと知っている。
けれど、それを知っているからこそ、行かせたくなかった。
(愛していたのに)
男が悲しげに、諦めたように眉を下げるのが気配で分かって、尚も行かせたくなくなってしまう。
きっと優しい彼は、自分が泣いたり嘆いたりすれば余計にこの女が悲しむのだと分かっていて、つとめて平静を装おうとしていたのだろう。
(愛し合っていたのに)
けれどそんな虚勢も崩れ始めてしまったようで、男の声は涙の気配に満たされて震えている。
端正な顔が歪んでいる。幾度も女を抱き締めてきた肩が小刻みに揺れている。男が深呼吸をして、どうにか平静を取り戻そうとして―――けれども取り戻しきれなくて、口惜しそうに拳を握りしめる。
(それでも覆せない悲しい事実なんて)
許せなかった。
男にこんな顔をさせる現実も、それを更に困らせるじぶんも、何もかもが許せなかった。
このような事態を招いた根源が憎たらしくて仕方がない。だからこそ。
(私がこの手で塗り替えてやる)
何度も何度も強くそう願った。
心の底から叫ぶように、自分の奥底に刻み付けるようにして願った。
自分の傍らに居てくれる優しい人を求めて、泣き叫んだ。
(取り戻してやる)