4日目を迎えて、五十鈴はなんとか一人で立てるまでになった。それでも歩く速度はまだまだ遅く足取りも頼りないが、何かに寄りかかりながらであれば数十分だけ立ち作業をすることもできた。
そのため五十鈴は今、歩く訓練も兼ねて厨に立っている。
冥仍からは「無理をしないでね」と念を押されたが、元々人のために何かしたくなる性分である五十鈴にとっては自ら動けるようになったからには今までの恩返しをせずにはいられなかった。
「とは言っても、あんまり凝ったものは無理かなぁ…」
調理台に手をかけながら、頼りない足を一瞥して苦笑する。けれど長く母と2人暮らしだったため、短時間で簡単に料理を作るのもお手の物だった。本当なら世話になった冥仍にはもっと凝った料理を振る舞いたかったが、無理をして倒れてしまっては元も子もない。
それにしても、と五十鈴は足元に置かれた籠をちらりと見やる。籠の中には新鮮な野菜がいくつも入っていた。葉っぱが程よく伸びた大根、土がついたままのごぼう、表面が凸凹とした胡瓜―――どれも、妖である冥仍には必要ないはずのものだ。
食べなくてもいい食材をここまで揃えてしまうのを冥仍は「昔からの癖のようなもの」だと言っていたが、冥仍にとっての“昔”とは、五十鈴にとっての何年前なのだろうか。それに、“癖”とは一体なんなのだろう。
考えれば考えるほどキリがない。冥仍は人間と呼ぶのも妖と呼ぶのも憚られるような印象があり、どちらともないその姿が本人の清廉さと神秘的な雰囲気に拍車をかけている。表情を無くせば冷徹にさえ見えるだろう端正な顔立ちも、唇が少し弧を描くだけで印象ががらりと変わる。
関われば関わるほど、彼そのものが分からなくなっていく。
そこまで考えて、五十鈴ははっと我を取り戻した。気になるのは確かだが、厨で長々と考えるようなことではない。今は料理に集中しよう。
「…ん、よし!それはそれ、これはこれよね!」
五十鈴はさっそく籠からいくつかの野菜を拝借した。冥仍に許可はとってあるし、この野菜たちは五十鈴や冥仍が口にしなければ動物たちの餌か肥料になるというのだから思い切って使わせてもらうことにする。
五十鈴は張り切って、たすき掛けにした着物の袖をまくり上げた。
昨晩いつになく鮮明な夢を見た後も、五十鈴はいくつもの情景を夢に見た。
そのどれもがいつものような悲しい場面ではなく、日常の中の何気ない風景ばかりだった。時間も場所もばらばらで、唯一の共通点は登場するのが別れの夢で泣いていた男女だという事だ。
甘味処で団子を分け合って食べるふたり、夜の川に映りこむ葉桜を見てはしゃぐ女と微笑む男、薄く色づいたススキの陰で女を抱き締める男、雪景色の中で戯れに雪を投げてじゃれる女と照れ笑いを浮かべる男―――今までの夢とはまるで違う、幸せな光景ばかりだった。
けれど、そんな幸せな光景を夢で見せられる五十鈴自身は、何故だかどうしようもなく悲しくなってしまう。理由は分からないが、ふたりが幸せであればあるだけ、涙があふれて止まらなかった。
―――“…き、…”
脳裏にこだまするのは、男の名を呼ぶ女の声。その聞いたことのない文字の羅列が、耳にこびりついて離れない。
―――“ゆ…、……”
何より、あれは。あの名前を呼ばれていた男の顔は、
―――“ゆきひこ”
悲しいくらいに、冥仍によく似ていた。
「これは…すごいね」
御膳に並べられた2人分の料理を見て、冥仍が感嘆の声を漏らす。五十鈴が足の調子を考慮しながら作ったため、御膳にはただの家庭料理が数種類並んでいるに過ぎない。にも関わらず、冥仍はどこか楽しそうにしていた。常にすらりとしている切れ長の目が少しだけ輝いているようにも見えて、五十鈴は思わず縮こまる。
「そ、そんなに大した料理じゃないですよ?」
「いやいや、これだけ作れるなんて大したものだよ。料理がうまいんだね、五十鈴ちゃん」
照れて萎縮する五十鈴に向けて、温かい言葉をかけながらにこりと笑う。あぁもう、本当に。磋怐の伴侶という立場でありながら、どうして彼はここまで人を惹きつけてみせるのだろう。
真っ直ぐに向けられる笑顔がまぶしくて、ありがとうございます、と謝辞を述べるだけでも顔が熱くなった。
そんな五十鈴の気を知ってか知らずか、冥仍はいそいそと食べる準備を進めてしまう。
「じゃ、せっかくだし冷めないうちにいただくよ」
いただきます、と丁寧に手を合わせる所作さえも見事で、それが自分の料理に対して向けられているという事実が五十鈴の顔を更に熱くさせた。恥ずかしさはあってもやはり反応が気になってしまうもので、自分の分を食べながらちらりと彼の様子を覗き見る。
「どう、でしょうか?」
恐る恐る尋ねると、彼はちょうど味噌汁の具を口に運んだところだった。味を噛み締めるように咀嚼する彼の目が、ゆるやかに温かく細められる。
「……うん、美味しいよ」
次いで告げられた言葉もやはり優しくて、五十鈴は胸の中にじんわりとした感覚が広がっていくのを感じた。知らない筈なのに、知っている。これは安堵とときめきだ。
「…よかったぁ」
思わず安心してため息交じりにそう漏らすと、冥仍がくすくすと抑えた声で笑う。
「そんなに心配しなくても平気なのに。とっても美味しいよ」
「ぁ、ありがとうございます…っ」
「…うん、美味しいよ。ほんとうに」
次いで冥仍が何事かを呟くが、そよ風よりも小さなその囁きはうまく五十鈴の耳に届かずに空に消えてしまう。少しだけ届いた言葉の端々が、“相変わらずだな”と言っていたように聞こえたのは、五十鈴の気のせいなのだろうか。
けれど食事中ということもあって、五十鈴がそれを訝しむ暇はあっても問い直す時間はなかった。
今はそれよりも、料理を口に運ぶ彼の様子を見ていたかった。
「…冥仍さん、美味しそうに食べるんですね」
味噌汁の油揚げを嬉しそうに咀嚼して飲み込む様を見て、自然と笑みがこぼれる。普段が普段なだけに、嬉々として料理を食べる彼はどこか幼く、可愛げさえあるように見えた。冥仍に対して警戒心がないが故そう見えているだけなのかもしれないが、少なくとも五十鈴はそう感じてしまう。
言われた冥仍は、ぱちくりと瞳を瞬かせた後に照れたように苦笑した。
「え…そうかな」
「そうですよ。なんか、嬉しい」
「あははは…」
ばつが悪そうに笑うその顔は、今まで見たことのない表情だった。新しい一面を知れたことが嬉しくて、いつもと同じ料理の味もまるで違ったものに思えてくる。
知れば知るほど分からなくなるし、知れば知るほど、愛おしい。本当にこの人は狡い。
「…誰かに作ってもらう料理なんて、久しぶりだからなぁ」
そうして笑う冥仍の姿を、出来ることならこの先もずっと見ていたいと思った。
***************
その晩、五十鈴はまた違った夢を見た。
今までのような悲しい別れの夢ではないし、昨日見たような幸せな情景を断続的に見せる夢でもない。ただひたすらに真っ黒な空間に自分が佇んでいるだけの、正も負もない夢だ。
「なに…これ」
そして、今回は明確な意思と感覚があった。泡沫に包まれているようだった今までの夢とは違い、はっきりと思考し、発言し、動くことができる。触覚さえ現実と遜色なく、周りの景色さえまともだったなら現実とはき違えてしまいそうなほどに鮮明な感覚だった。
それだけに、混乱する。原因も分からずに明瞭すぎる夢を見てしまった自分はどうなるのか、考えただけでも恐ろしかった。
現実で目を覚ませなくなってしまうのだろうか。現実と夢との区別がつかなくなってしまうのだろうか。それとも、実はここが現実で今までが夢だったのだろうか。
恐ろしい想像というものは、考え始めれば際限なく湧き上がって心を圧し潰してくる。五十鈴はたまらず座り込み、耳を塞いで目を固く閉じた。起きろ、起きろと強く自分に念じながら恐怖心をやり過ごそうと試みる。
すると、蹲る五十鈴の目の前に、何者かがやってきた。気配でそれがわかった五十鈴は、けれども恐ろしくて目を開けることができない。
「……いいよ」
五十鈴の恐怖心を見抜いたかのように“それ”が言う。たった一言の短い台詞の中に含まれた意味が、なぜだか五十鈴にははっきりと分かった。
怖がらなくていい。目を開けていい。心配しなくていい。“それ”は確かにそう言っている。
「ぁ……」
恐る恐る、耳から手を離して目を開く。ゆっくりと見上げると、眼前には人と思しきかたちをした白い影が立っていた。黒く塗りつぶされた世界の中で、それはひときわ白く輝いて見える。
「あなた、は…?」
白い影に対して、警戒心や恐怖心は感じなかった。むしろ自分とよく似た親近感のようなものを覚えて、五十鈴は慎重に声をかける。まだ少しだけ震えている五十鈴の声を聞いた白い影が、微かに笑った―――ような気がした。
「……いすず」
白い影が、静かに告げる。五十鈴がどうして自分の名を呼ばれたのか分からずに困惑していると、影はもう一度口を開いた。
「……五十鈴」
たった一言、少し声音を強めただけのその言葉だけで、五十鈴はその意味を理解した。
先ほどまで分からなかった感覚が、今まで不思議に思っていた違和感が、その全てがあるべき場所へ収まっていくような感覚に包まれる。
そうして理解すると同時に、懐かしい、と目を細めた。
「…いすず」
確かめるように、名前を呼んだ。白い影が満足したように頷くのが見えて、五十鈴の口から笑みが零れる。
「ありがとう」
五十鈴が心からそう告げると、真っ黒な空間は白く塗り潰され、輝きのなかに溶けていった。
やっとわかった。やっと全て理解できた。
どうして懐かしかったのか、どうして愛おしいとおもったのかも、全てわかった。
思い出した。
だからこそ、と五十鈴は早くにこの夢が覚めることを願う。
一分一秒でも早く目覚めて、彼のもとへ行かなければならない。
誰よりも愛おしい彼のもとへ行って、伝えなければならない。
今度こそ、取り戻してみせると。