自分の年齢よりも遥かに膨大な数の記憶をいっぺんに思い出した影響か、五十鈴が目を覚ましたのはもう日が沈もうかという時刻であった。
障子越しに漏れてくる朱色の光がかなり傾いていることを知った五十鈴は愕然として、震える脚を叱咤して無我夢中で駆け出した。今は襦袢から着替える暇さえ惜しい。
今までの生活ですっかり見慣れてしまった社の中を走り回ってあちらこちらに目を向けるが、探している姿はどこにも見当たらない。
(はやく)
日が更に傾いている。遠くの山々の陰に隠れつつある太陽を見て、焦る気持ちばかりが膨れ上がっていく。
履物を慌ただしくつっかけて社から出ると、夕刻ということもあって祠の敷地内の空気はすっかり冷えていた。汗で濡れた襦袢がひやりとして体温を奪っていくのが分かるが、今は二の次だった。
(はやく、)
社から離れて辺りを探す。真っ黒に塗り潰された狐の石像が置かれた入り口、二人で笑い合った木陰、彼がよく動物たちに野菜を与えていた小さな花畑―――何処にも、居ない。
もう日はほとんど落ちかけている。朱の光が少しずつ紺桔梗に塗り変えられていく。
(夜になってしまう前に、はやく!)
敷地内を隅々まで駆けずり回って、最後にたどり着いたのは石造りの祠だった。がくがくと震え続ける脚はひとたび立ち止まってしまえば頽れて動かなくなってしまいそうで、五十鈴は意を決して重たい石の扉をこじ開ける。
やっとの思いで開いた扉の向こう側は、いっそうひやりとしていて寒気がした。
中央部分に幾重にも刻まれた陣、そしてその上に鎮座する巨大な石。通常ならば有り得ないほどの大きさの流線形を描いた石が何であるかは、初めてそれを目にする五十鈴でも分かった。
そして、その石のすぐ近くには、彼がこちらに背を向けて立っている。
彼の後ろ姿を半分も覆い隠してしまうほどに大きな九つの尾は風もないのにゆらゆらと揺れ、その表情を覆い隠してしまう。髪の隙間を縫うようにして生えている狐の耳が、五十鈴の気配にぴくりと反応した。
ようやく見つけた。
五十鈴は思わず顔が綻んでしまうのを止められず、震える脚を必死に動かして彼の元へと走った。
あと少し。
“何度も邂逅してきた”彼の後ろ姿が、少しずつ近付く。今すぐにでも、指先一つ動かさない彼の手を取って抱き締めたかった。
あと少し。
昔とは違う姿になってしまったけれど、今の彼の姿だって何度も何度も目にしてきた。
ずっと抱き続けてきた懐かしさの正体がようやっと分かった今、五十鈴は一刻も早く彼に“触れ”たかった。
“今度こそ”、彼の心からの笑顔をもう一度見たかった。
あと少し――――
「うああぁっ!!」
がつん、と思い切り殴られたかのような衝撃が全身に襲い掛かった。立っていられないほどの衝撃に、限界を迎えていた五十鈴の足はとうとう動かなくなってしまう。
前のめりに頽れた五十鈴は、それでもなんとか立ち上がろうと腕に力を込めて顔を上げようとして――顎にそっと触れる、冷たくも優しい指先に気が付いた。
「え……」
そのまま、ゆるりと顔を上向かせられる。そこには、膝立ちになって五十鈴を見つめる彼の姿があった。満月の色をした艶やかな瞳を、冷たさと温かさとが混じり合った複雑なかたちに染めて。
「……っ」
思わず安堵の笑みが漏れ、五十鈴が彼の名を呼ばわろうとした。けれども、それを遮るかのように彼がぴしゃりと言い放つ。
「……もう、駄目だよ」
「……え」
「もう……月が浮かぶ」
その言葉に、愕然とした思いで彼の背後に目を向けた。陣の中に鎮座していた石が、黒い靄に包まれて今にもかたちを変えようとしている。
世界を壊して暴れ回った、五十鈴から彼を奪っていった、あの恐ろしい妖狐の姿になろうとしている。
遅かった――強い衝撃を受ける五十鈴に、彼は尚も言い募る。
「だから、磋怐様が目覚める前に終わらせよう」
瞬間、彼の手が五十鈴の首に移った。しなやかで細く長い指と手が、五十鈴の首を静かに、けれど強く締め上げる。ぐうっと空気が詰まり、五十鈴は彼の手を離そうと試みるが、呼吸を絶たれた身体はうまく働かない。
「っ、ぅ……ぇ」
「……“五十鈴”」
彼の声が、どこか遠く感じる。
「……五十鈴。どうして……、どうして、また此処へ来たの?」
うまく声が出ない。彼の名前を呼びたいのに。
「磋怐様との初夜の後、きみが死んでいるのを見つけた。だけど、そのすこしあとにきみは此処へやってきた」
首を絞める彼の手を、夢中で叩く。けれど力は入らず、ただぺちぺちと頼りない音がするだけだ。
動くようになったばかりの足で祠の敷地内を走り回り、汗に濡れた襦袢と冷たい空気で体温を奪われ、五十鈴の身体は限界まで消耗していた。
「そのきみも、此処で死んだ。けれどそのすこしあとに、またきみは此処へやってきた」
意識が朦朧とする。彼に笑いかけたいのに。
「ずっとずっと、そのくりかえし。きみはいつだって、“五十鈴”のままで僕の前にあらわれる」
関節に力が入らず、湯浴みの後のような脱力感が身体を満たしていく。息苦しさからかそれとも別の何かからか、涙で視界が濡れて彼の姿がぼやけてしまう。
五十鈴は必死に瞬きをして涙を振り払い、彼の姿をとらえようと目を凝らした。
「生まれ変わって、前までの記憶を思い出して、“あなたを取り戻す”んだって、僕にそう言って笑う。きみはいつだっていつだって、僕の前にあらわれる度にそう言った」
身体がうまく動かない。彼に触れたいのに。
「どうして、また此処へきたの?此処へくれば、きみはいつも死んでしまうのに。僕を取り戻すことなんて、できやしないのに」
言葉が出てこない。彼に告げたいのに。
「苦しい思いをするのに。痛い思いをするのに。僕は、きみに一方的に別れを告げたひどい男なのに。それなのに、どうして―――どうして、」
彼は、たしかに泣いていた。優美な切れ長の目を歪めて、満月の色を涙で潤ませて、それでも雫は零さずに、静かにひたすらに泣いていた。
「どうして、きみは、」
必死に、彼へと手を伸ばす。もはや身体全体が震えるばかりで、視界は黒いもやに覆われ始めていた。
けれども必死に力を振り絞って、彼へと手を伸ばす。そして、やっとの思いで、彼の頬に五十鈴の手が触れた。
「え……」
瞬間、彼は目を見開いて動きを止める。その手が少しばかり緩んだことで僅かに戻った呼吸を使って、五十鈴は必死に笑いかけた。
「ゆき、ひこ」
「……っ!」
“鬨和 雪彦(ときわ ゆきひこ)”。磋怐に与えられた冥仍などという名前ではない、彼の本当の名前。
磋怐が現れ、世界を壊し回ったあの時代―――まだ人間であった彼と、まだ輪廻を巡る前であった五十鈴は、確かに愛を誓い合った恋人だった。
雪彦が磋怐に見初められ、伴侶として差し出されたことで引き裂かれてしまった。
自分は去ろうとする雪彦に追いすがり、初めて此処を訪れて―――雪彦が磋怐によって妖に変容させられる光景を目の当たりにして、そこで“初めて”死んだのだ。
ずっと夢に見てきた光景は、輪廻を巡る以前の自分自身の別れの記憶であり、五十鈴の道標だった。
そして、今も。
「ゆきひこ」
愛していると、今でもずっとずっと好きなのだと、その名前に想いを込めて呼んだ。たった一度だけ告げることのできた彼の名に、ありったけの想いを込めた。
愛している。好きだ。今でも、これからもずっと好きだ。だからこそ、いつか必ずあなたを取り戻してみせる。
――たとえ、何度生まれ変わっても。
彼が、静かに慟哭する。声にならない叫びと共に、五十鈴の首に両手がかけられた。
ああ、今回も駄目だったなぁ。
五十鈴は残念に思いながらも、それでも絶望や後悔を抱いてはいなかった。
また、生まれ変わる。新しく体を得た人間となって、自分はまた此処を訪れる。
そしていつか、愛しい彼を取り戻してみせるのだ。
***************
≪ああ、やはりこの小娘の瘴気は格別だのう≫
磋怐が五十鈴の身体から瘴気を奪い、咀嚼しながら満足そうに呟く。
人間の身体から一度に全ての瘴気を奪い取れば、待っているのは地獄の苦しみだ。それを味わって死ぬ五十鈴の姿を一度目の当たりにしているからこそ、“彼”は自ら五十鈴を手にかけることを選んだ。
願わくばそれによって彼女が絶望し、もう二度と、生まれ変わって此処へ来ようなどと思わせないようにするために。
けれど彼女は最後、彼の名を呼んで笑ってみせた。
愛している、好きだ、必ず取り戻すと。呼ばれた名に込められた想いは、痛いほどに彼に伝わった。
どうして、と彼の唇が音もなく言葉を紡ぐ。白い頬を横切るようにして、一筋の雫が零れ落ちた。
彼女には、生まれ変わって幸せになってほしかった。
自分の事など忘れて、別の誰かと一緒になって、家庭を築いてほしかった。
それなのに、どうして。
彼女は生まれ変わるたびに此処へやって来る。何度も何度も記憶を保持して転生する人間の瘴気は、磋怐にとっては最上級の食事だ。食べ尽くさずにはいられない。
此処へ来れば、磋怐に瘴気を食い尽くされて死んでしまう。磋怐は一度足を踏み入れた至上の贄を、自分の胃に納めるまで逃がしはしない。
此処へ来なければ、食われることはない。けれども因果が廻り廻ったのか、磋怐がそうしたのか、それとも彼女の意地か、どうあっても彼女は此処へ来た。
何度も何度も彼女を追い払おうとしたが、磋怐に逆らうことを許されない彼にはどうしても叶わなかった。
冷たく接したこともあった。遠ざけたこともあった。暴力をふるったこともあった。
けれど、どれだけ拒絶し追い払おうとしても、彼女はやはり此処へやってきて、最期には決まって彼を呼ぶのだ。
どうして、そんな苦しい道を。
≪冥仍や≫
彼の身体に、磋怐の尾が触れる。
冥仍。冥に仍るもの。冥が仍るもの。磋怐によって与えられた名前。
磋怐の伴侶であり、その傍らに在り続ける一番星。
永遠に続く千夜の絶望を象徴したような名前だった。そんな中で、彼女は僅かな光であり、希望だった。だからこそ、此処へ来てほしくないのに。
茫然自失となった彼の頬を、磋怐の舌が這っていった。五十鈴のために流した涙を奪い取るかのように、その雫を払い落としてしまう。
≪食事は終わった。邪魔な“昔の女”も消えた。であれば……あとは、分かるな?≫
磋怐の舌と尾が、彼の身体を絡め捕る。その思考ごと覆い隠してしまうようなそれに、彼はただ身を委ねてしまう。
そうして全てを覆い隠される直前、彼の唇が彼女の名を呼んだ。
季節が廻り、彼女は再び其処を訪れる。
今度こそ彼を取り戻すのだと決意を新たにして、死と隣り合わせの賭けに挑むのだ。
ただ一つの、愛した人を救い出すという望みを叶えるために、彼女は再び現れる。