「――んぁ……あ?」
目を覚ますと、グレンはどこかのベッドへと寝かされていた。瞳に差す照明の光に顔をしかめながら、身体を起こす。不思議なことに、上半身を起こしても身体に痛みは走らなかった。
周囲にはソファやステレオコンポなどが置かれ、脱ぎ散らかした服やゴミが散乱している。どうやら、グレンは自室に寝かされていたようだ。
「……何でだ?どういう事だ、コレ…」
呆然としながら自分の身体を検める。服は寝間着に着替えさせられていたが、包帯や湿布の類はどこにも見当たらない。それどころか血の一滴さえも流れ出ていなかった。
「まさか、アレが全部夢だった…なんてオチじゃねえよな?」
思わず苦笑と共にため息が零れる。自分はあの時、魔物と化したザラデルとの戦闘中に油断して、ヴァレリエートの少女によって心臓を抉り出された筈なのだ。生きていられる訳がない。
混乱しながら上半身の寝間着を捲る――と、胸の中心部に気味の悪い傷跡が付いていた。
縦一直線に一文字に斬られたような跡があり、その上から幾重にも傷跡が付けられている。
「なんだ、コレ……」
グレンがぽかんとしていると、部屋のドアが勢いよく開かれた。突然大きな音が鳴ったことで、グレンは思わずびくりと身を固くする。
「――グレンッ!」
息を切らせながら部屋に入ってきたのは、ユリウスだった。いやに焦った様子で駆け込んできたユリウスは、目を瞬かせるグレンの傍まで歩み寄ってくると、彼の手をしっかりと両手で握る。
身体から力が抜けてしまったのか、ユリウスはそのままへなへなと座り込んだ。
「グレン…ッ、ああ…良かった……」
「お、おいおい…何だ、どうしたんだよ、ユリウス?」
あまりの出来事についていけずにいたグレンが尋ねると、ユリウスは震える声で語り始める。
「っ、君が…路上で倒れてるのが見つかったんだ。外傷は無かったけど、酷い熱が出ていて…。
……今の今まで、3日間…ずっと、苦しみ続けていたんだ……」
「はあ…?熱で寝込んでたっていうのかよ?オレが?3日も!?」
グレンは苦笑して肩をすくめてみせる。あれだけ派手に心臓を抉り出されたというのに「外傷が無かった」とは、にわかには信じ難かった。
「ユリウス、そいつは何の冗談だ?自慢じゃないが、俺は生まれてこの方、風邪なんてひいたことねえんだぞ?」
しかし、ユリウスはグレンの軽口には答えなかった。どこか思いつめたような表情で俯いてしまう。グレンの手を握りしめるユリウスの両手は、小さく震えていた。
それをじっと見つめながら、グレンの表情から笑みがすっと消える。
「……ユリウス」
低く掠れた声で呼ぶと、ユリウスははっと顔を上げてグレンと目を合わせた。自分の左手を握りしめるユリウスの手に、右手をそっと添える。
「お前は、昔から嘘がヘタだよな。……何か、隠してんだろ?」
「っ!そ、それは…その……」
「話せ、ユリウス。…何なら直接、身体に聞いてもいいんだぜ?お前はくすぐったがりだったよなあ?」
グレンが再びいたずらっ子を思わせるような笑みを浮かべると、ユリウスは少し驚いたように目を見開き――そして、観念したようにふっと噴き出す。
「ふふっ…敵わないなあ、君には。――分かった。…話すよ、全部」
部屋に飛び込んできてから、ずっと不安げな表情をしていたユリウスは、この時ようやく笑みを見せた。
「グレン、街の魔術師が言うには……君の身体の中には、何か…とても禍々しい気配がするらしいんだ。君が高熱で苦しんでいたのも、きっとその気配のせいだと思う。…気配の正体は、分からないんだけどね。
…ともかく、君をこのままにしておくのは危険らしいんだ。だから…」
ユリウスは唐突に言葉を切って、グレンの首――鎖骨のあたりにそっと触れる。
「ここに…特別製の、魔除けの首輪を付けさせてもらったんだ」
「――はあ!?」
グレンは慌てて自分の首元を手で探る。すると、冷たい金属の感触が指に伝わった。
ユリウスがそっと差し出してきた手鏡に首元を映すと、銀でできたごつい首輪がグレンの首に取り付けられていた。
「ちょっ…と待てよ!首輪?オレは犬でもなければドMでもねえぞ?」
銀の首輪には中心部に人間の目のような形をした石が嵌め込まれていた。年輪状の模様があるそれは、暗がりで見ると本当に人間の目に見えてしまいそうだ。
「それは、アイ・アゲード。天眼石とも呼ばれる石なんだ。銀と同じく、強い魔除けの力がある。
…魔術師が作った、特別製だよ」
「だからって…なあ」
「仕方がないんだ。…だって、それがないと君は……」
「――バケモノになっちゃうんですもの。ねえ?」
ユリウスの言葉は、予想外の方向から発せられた声によって遮られた。2人がはっと声のした方向を見やると、開かれた窓の向こう――夜の闇の中から、ヴァレリエートの少女が現れる。
少女はグレンを見ると、ふっと口角を吊り上げて笑った。
「思ってたよりも随分と早いご登場じゃねえか。オレの心臓はどうしたんだい、リトルガール?」
「午後のティータイムに頂いてやったわ。好き勝手に遊び放題してる男の心臓にしては、なかなか良い味だったわよ?」
「ハッ、相変わらず悪趣味な事だ。…で?今のはどういう意味だ?」
グレンは野性的な笑みと共にベッドから立ち上がり、少女に問いかける。容赦も品もない言葉の応酬に目を白黒させているユリウスを気遣う余裕は無かった。
少女は未だに寝間着姿のグレンをふっと鼻で笑うと、グレンとユリウスを見下すような口調で答える。
「…そりゃあもちろん、言葉通りの意味よ。今のアンタの身体の中には、アンタの心臓は無い。―――死んで醜い魔物になった、アンタのアニキの心臓を代わりに入れてやったのよ!」
「な――っ!?」
その言葉に、グレンもユリウスも、咄嗟に声が出なかった。
グレンは思わず、自分の胸の中心に右手で触れる。ドクン、ドクンと心臓が脈打つ音と一緒に、魔物となったザラデルの呻き声が聞こえてくるような気がした。
「ど、どういう事!?じゃあ、グレンは…!!」
「魔物の心臓を移植したんだから、トーゼン魔物の血とか体液とかが身体中に混ざって……ああ、そうそう。そのチャラチャラした銀の首輪を外せば、魔物に大変身するわよ?」
「そんな…っ!!」
ユリウスはひどいショックを受けた様子で、血の気の引いた顔で目を見開く。それを横目で見ながら、グレンは自分の心臓の鼓動を聞きつつも少女に声をかけた。
「――なあ、オマエらは何がしたくてこんな小細工仕込んだんだ?どうせ最初から俺にあのクソ兄貴の心臓を入れるつもりだったんだろうが」
「そうねえ…。実験、かしら?人の形を保ちながらも、魔物という〝超越した存在″の身体の一部を受け入れることで、力を得る事が出来る……なんて、素晴らしいじゃない?」
「ハッ!相変わらず根っこまで腐ってやがんな、テメエらは」
グレンはベッドサイドのテーブルに置かれていたククリナイフを手に取ると、窓枠に座る少女の元へと歩み寄った。必死に引き留めるユリウスの声が聞こえたが、今のグレンには届かない。
「で?スバラシイ実験とやらも終わって、用済みになった俺を処分しに来たってトコか?」
「やぁだ、とんでもないわ。アンタは貴重な実験成功体…そう簡単に処分なんてする訳ないわ。もっともっと観察しないと。それに…魔物の力をちゃんと扱えば、かなりの力が出せるのよ?どう、悪い話じゃないでしょ?」
少女の言葉を聞いて、グレンは自分の口角が自然と吊り上がるのを感じた。
一方で、少女の唇は相変わらず美しい弧を描き、笑みを形作っている。何も知らぬ第三者が見ればただの整った顔をした少女にしか見えないだろうが、グレンにはその笑みが何よりもたちの悪い笑みに見えてならなかった。
「なら…その力、遠慮なく使わせてもらおうじゃねえか。オレを観察するってんなら、見物料をテメエらの命で払ってもらわねえとな!」
グレンは少女のすぐ近くまで歩み寄ると、ククリナイフを少女の喉元に突きつける。白く細い喉に鋭利な切っ先がぴたりと当てられた。
「いいわねぇ…さ、その首輪を取っちゃいなさい。アンタとアニキの力、見てあげるから」
喉元に刃を向けられても少女は笑みを崩さない。誘うように掌をグレンに差し伸べる姿は、男性を踊りに誘う淑女のようだった。
グレンもまた、獲物を前にした獣のような野性的な笑みを絶やさぬまま、首輪にそっと手をかける。
「――駄目だっ!!」
首輪に取り付けられている天眼石にその指が触れかけた時、ユリウスの悲痛な声がようやくグレンに届いた。
今まで聞いたことのないようなユリウスの声に驚いたグレンが思わず振り向くと、ユリウスは今にも泣きそうな、悲痛な表情でグレンに訴えた。
「それを、一度でも外してしまったら…!君は、二度と平穏な人の暮らしには、戻れない!一生、魔物の心臓と向き合って!痛みを抱えて!化け物と罵られて!戦いと隣り合わせの日々を、送らなきゃならなくなるんだ!!
駄目だ…外しちゃ、駄目だ!!お願いだから…、お願いだから!!やめてくれ、グレン!!!」
温厚で情に厚く、過剰すぎる程に気弱で繊細で心配性なユリウスが、ここまで必死に叫ぶ姿を、グレンは今まで一度も見たことが無かった。
瞳にうっすらと涙を浮かべながら声を荒げる友人の姿に、グレンの胸がずきりと痛む。
「生憎だがな、ユリウス……」
グレンは胸の痛みには気付かないフリをして、ユリウスに背を向けた。
今まで教団に両親を奪われ、兄を奪われ、自分の人として生きる道さえも奪われたグレンにとって、意図せず手に入れた力といえど使わずにはいられなかった。
それは、復讐や仇討ちといった黒く悲しい感情とは、また違うもの。
「――いい加減、コイツら教団とは、ケリを付けねえと気が済まねえんだよ…」
その言葉を皮切りに、グレンは首輪の天眼石に触れた。その途端、カチリという小さな音と共に首輪がするりと外れ――同時にグレンの身体も、変異した。
それは、魔物と化した兄・ザラデルと同じ姿。焦げ茶色の皮膚と体毛に覆われた、獣人のような巨大な魔物。3メートルもある巨体は静かな迫力を持ち、鋭利な鉤爪が鈍く輝いている。
「グ…グオオオアアアアアアッ!!!」
驚愕と悲しみで涙を流すユリウスと、悦楽に満ちた表情で笑う少女の視線を受けながら、魔物は血の底を這うような低い声で咆哮した。
その咆哮の主が、果たしてグレンだったのか、ザラデルだったのか――あるいは両者かは、誰にも分からない。
*********
それから数か月後、グレンは一人森の中を悠々と歩いていた。
あの後、グレンは住んでいた家を引き払い、誰にも告げずに街を出たのだ。好きだった酒場にも、自分の為に涙を流してくれた友人・ユリウスにも、あれから一度も顔を出していない。
だが、自分はいずれあの街に戻る事になるだろう――グレンは月明かりの下で口笛を吹きながら、頭のどこかでそう考えていた。
あの街には、ヴァレリエートの総本山がある。いずれはあの教会に出向いて、ケリを付けなければならない。
「――お久しぶりね。ご機嫌はいかが?」
ふと、背後から聞き覚えのある声がした。その声の主には嫌というほどに覚えがある。グレンはにやりと愉しそうに口角を吊り上げると、大仰に肩をすくめて振り返った。
「よお、最近見ないと思ったが…久しぶりに熱烈な歓迎じゃねえか」
見ると、少女の周囲には10数人の教団員が立っていた。皆一様に白装束を纏い、ヴェールで顔を隠している。
「オール白か…相変わらず、ぶっ飛んだ趣味してやがんなぁ」
それぞれに武装した教団員たちを眺めながら、グレンはシースから2本のククリナイフを抜いて構える。少女は冷笑を浮かべながら、先端がカマのように曲がった剣――グレンの心臓を抉り出した剣だ――の切っ先をグレンに向けた。
「これだけの人数が居たほうが、アンタとしては楽しめるんじゃない?さ…来なさい。今日こそは八つ裂きにしてあげるから」
少女が愉快そうな声をあげると、それを合図にしたように教団員達が一斉に武器を構える。彼らは声も発さぬまま、じわりじわりとグレンの周囲を取り囲み始めていた。
それを見て、グレンはいっそう口角を吊り上げる。両手に持ったククリナイフを縦横無尽に振り回し――やがてその切っ先を正面に立つ少女へ向けた。
「――上等!」